音楽にとって価値とはなにか―フィンランドで明らかになる私たちの課題―

窪田 翔

「西洋音楽に師匠なんて必要なんですかねぇ。日本人はよく師匠師匠って言うけれど、西洋音楽に師匠なんて概念無いでしょう!?」

フランクフルトに住む私の妻がある日本人の友人を紹介してくれたのだが、マルクス経済学が専門でホロコースト研究の学者という彼は大きな声で私にそう問うた。師匠と崇める音楽家の何人か思い当たる私はそれを聞いてドキッとしたが、同時にこうしたやり取りに自分が妙に慣れていることに気づく。なるほど、彼は実にフィンランド的なのだ。

ラジオで聴いた放送響の音に惹かれてフィンランド留学を志し、単身ヘルシンキに突撃したのが2007年の9月。シベリウスアカデミーとはご縁がなくスイスとドイツに留学したが、巡り巡ってクオピオでティンパニ奏者となったのが2012年。この国に足を踏み入れてからそろそろ20年になる。

北欧というと日本の人々は絵はがきの景色の中の安らかな生活を思い浮かべるだろう。私もかつてはそうした若者のひとりだった。だがこの社会には独特の厳しさがあり日本などのそれとは全く異なる類のものである。クオピオの都市のコンセプトはどこに住んでも森と湖まで歩いて6分。-30℃ともなればこの地に生きる意味を沈思するまで5分とかからない。職場で何か問題があってブーたれていると「考えがあるなら君が対処してくれ」と言われてしまう、待ったナシの社会なのだ。

ウェルビーイングを大切にするフィンランドでは、厳しい要求をする指揮者や寝食を犠牲にして練習する同僚たちを陰で(公では問題がある)「ナチ」などと揶揄することさえある。能力の無い者には価値がないとする優生思想や、市場の原理に取り込まれることを怖がるこの国の土壌から生まれた感性によるものだろう。親族の葬式を欠席してでも舞台にあがれとは齋藤秀雄の言葉だが、桐朋学園で学んだ私は向上心とこの国の価値観の狭間でしばしば苦悩を強いられる。

入団当初、オーケストラはエキストラの奏者を雇うことを徹底的に嫌がっていた。労働基準の厳しいフィンランドでは、例えばエキストラ奏者1人をヘルシンキから招へいすると、交通費・食事代・保険・給料・4日分のホテル代を足して1,500ユーロくらいはかかってしまう。ブルックナーのシンフォニー7番の第2楽章にはシンバルとトライアングルがティンパニと同時に1発だけ書かれているが、こうした楽譜はクオピオでは冗談では済まされない。自筆楽譜にはGiltnicht(無効)と書かれているが、校訂者のノヴァークはこれをブルックナーの意思ではないと判断して正当性を与えた。ハース版ではこの打楽器は演奏されない。ある時コストを削りたい事務局が共有される編成表に打楽器を記入しなかったことがあった。事前に指揮者に「ここだけハース版を用いますか?」と尋ねると「打楽器を削る奴はナチスだ」と言われたことがある(ハースはナチスの党員だった)。

たかが打楽器、されど打楽器。ある日本人の指揮者はゲストで呼ばれたハンガリーの劇場の最初のリハーサルで打楽器の人数が足りないことに気づき、楽屋に引き返してその威信を貫いたという。この問題は毎回穏やかではない。そもそも政府から支援を受ける芸術団体が、たった一発のシンバルとトライアングルのために3,000ユーロも支出する必要があるのだろうか?経済の効率性を追求すると人はナチスになるのだろうか?でもそれを避けるならば一体お金はどこから持ってきたら良いのだろう。こんなことを本気で考えているうちに、気がつけば私の本棚は経済学の本でいっぱいになってしまった。

クオピオのオーケストラは公平で妥協のないオーディションを喧々諤諤と重ね、現在では国籍15カ国を越える団員を有する技術を兼ね備えたオーケストラになった。その間私もローカルで生徒を育てたが、うち何人かがプロの打楽器奏者として成長したのは非常に頼もしい。しかしいよいよこれからという所で、音楽界は緊縮財政や保護主義に苦しめられている。ウクライナの戦争が影響していることは間違いない。職場に移民を多く抱え、自由の中に生きる芸術家たちは、社会の攻撃性の格好の餌食にもされやすい。国籍や学歴にこだわらない公正なオーディションとなれば、アジアやロシアで幼少の頃から過酷な訓練を積んだ若者たちが強いため、フィンランド国内の奏者がなかなか勝てないという状況や入団後の価値観や音楽性の違いといった問題もなかなか深刻である。こうした中、極右を伴った新しい政権は「文化はぜいたく品だ」と唱導して大規模な予算削減を行い、エキストラの奏者たちは給料の20〜30%に相当する無課税の食事代が削られて、あちこちで反対キャンペーンが発生している。ここでもオーケストラは根源的な問いに直面している。

現政権の考え方に私は基本的には反対であるが、彼らの主張にも一利ある。実際フィンランドの地方オーケストラではチケット収入や演奏レベルの改善に努力が見られないような状況が長年続いていた。以前ある町でブルックナーの9番を演奏した時などは、1,000人の広いホールに30人くらいしかお客が入らなかった。せっかく世界標準を目指して練習を重ねても、マネージメントがこの有り様ではお話にならない。浮き世離れした安定的な土壌から自由闊達な才能が育ってきたという面もあるにせよそれは結果論といえば結果論で、とかくプロ意識を欠いたマネージメントの問題が多かったのである。手厚い社会保障のもと興行的な結果が給与を脅かすことのない、ある種の緊張感の無さに起因するものであったことは否めない。ただ、文化は市場の競争にさらせば効率よく回せるというような単純なものではなく、公平性と経済の効率化を重視すれば競争が過熱して移民や他国の文化を引き入れ、ウェルビーイングを促進すれば成長が鈍化して業界の足腰が弱る。他の業種でも見られるこうしたジレンマにフィンランドのオーケストラも悩まされている。昨日20代前後の若者たちを相手に、音楽学校で15分の講義を頼まれた。「なぜバッハの時代には行われていた即興演奏を誰も行わなくなったのですか?」という質問が出てから白熱し、気づけば1時間も話してしまった。「みんなが即興演奏できれば、先生が間違えを否定する必要はなくなるんですね!」と彼女は結論づけた。かなりの論理の飛躍だが、フィンランド的で良い。私は彼らが波乱万丈の世界にどういった手入れをしていくかに興味と期待を寄せている。世代や人種を越え音符の隙間を共にはかりあう音楽の営みは、もう少し評価されたっていい。何よりも演奏家自身が仕事の素晴らしさに気づくことが最も大事なのであるが、この地にはまだそうした瞬間も生き残っているようだ。

窪⽥翔(ティンパニ奏者)

フィンランド・クオピオ交響楽団首席ティンパニ奏者。桐朋学園大学、ルガーノのスイス・イタリア音楽院、フライブルク音楽大学で学ぶ。2011年度文化庁新進芸術家海外留学制度奨学生。スイス・イタリア管弦楽団の研修員として活動を開始し、NHK交響楽団、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団など数多くのオーケストラに客演。2022年までルガーノパーカッションアンサンブルのメンバーを務め、欧州・北南米・中東の様々な音楽祭に参加。サヴォニア応用科学大学でフィンランドの若手打楽器奏者たちの育成にも力を入れている。