Finland 100 Music History


フィンランド独立100周年記念合同企画総括報告
SUOMI100企画委員会・新田ユリ(日本シベリウス協会会長)

フィンランドが独立100周年を迎えた2017年、フィンランドに音楽を通して関わっている三つの協会が連携して
フィンランドの音楽、歴史、文化をひも解く企画が開催されました。

●オープニングコンサート ~カンテレ友の会企画~
9月24日(日)15時開演 汐留ホール

シベリウスアカデミー民族音楽学科出身のフィンランドを代表するカンテレ奏者、ミンナ・ラスキネン氏を迎えた公演は約100席のホールが満席の盛況のうちに終演しました。
小型5弦に中型15弦、そして大型コンサートカンテレまでマルチに演奏されるミンナさんに、会場は魅了されました。

プログラム
〈5弦カンテレ〉
マルッティ・ポケラ:マルッティ・ポケラメドレー 嘆きの少女・小道のほとりで・鐘のポルカ
伝承曲:青い鳥、金の鳥(ミンナ・ラスキネン編)
〈コンサートカンテレ〉
ミンナ・ラスキネン:オットー・パルムグレンの「水鏡」&エルナ・タウロの「秋の歌」による編曲
マルッティ・ポケラ:ハンシの犬
マルッティ・ポケラ:甌穴(ミンナ・ラスキネン編)
〈15弦カンテレ〉
スウェーデン伝承曲:ハンボ&ハンブルスカ(ミンナ・ラスキネン編)
伝承曲:父は与えた
伝承曲:林檎の木にまつわる二つのラヴソング(ミンナ・ラスキネン編)
ミンナ・ラスキネン:教会の鐘の音 クルスクノ主題による即興

演奏・お話 ミンナ・ラスキネン
ピアノ・進行 小川至(ピアニスト、日本・フィンランド新音楽協会)
共同プログラム冊子には高橋翠氏によるカンテレの歴史を解説したコラムが掲載されました。

Finland 100 Music History I ~日本シベリウス協会企画~

11月4日(土)14時開演 すみだトリフォニーホール小ホール

シベリウスのお孫さん(五女マルガレータの次女)であるサトゥ・ヤラスさんをお迎えして、ヴァイオリンの演奏とお話でフィランドの歴史と祖父シベリウスの作品と人となりについて語っていただきました。
駐日フィンランド大使 ユッカ・シウコサーリ氏もご臨席。

冒頭に久保春代理事による「フィンランディア」ピアノソロ版の演奏で幕を開けました。

アンダンテ・フェスティーヴォ(音源)
自宅でのシベリウスの様子(映像)
ロマンス 作品78-2(演奏)
〜休憩〜
ソナチネ 作品80(演奏)
夏の夜の散歩(演奏)
コウヴォのポルスカ(演奏)
北極星のもとに(演奏)
ラカスタヴァ(音源)
交響曲第4番より第4楽章(音源)
タピオラ(音源)
田園風舞曲 作品79-5(演奏)
ユモレスク 作品89-2(演奏)
ワルツ 作品81-3(演奏)
ユモレスク 作品78-1(演奏)
交響曲第2番より第4楽章(音源)
ノクターン 作品51-3(演奏)
トゥオネラの白鳥(音源)
交響曲第4番より第3楽章(音源)

〈私の祖父シベリウスとその音楽の世界〉

シベリウスの日常の様子がわかる貴重な映像の投影、祖父シベリウスが日常語っていたことのお話など、お孫さんを通してのあらたなシベリウス像を示していただいた前半。そして後半は水月恵美子さんのピアノを伴い、多くの楽曲を演奏いただきました。また、貴重なお話の数々をヤラス氏と長年交流のある、佐藤まどか理事が通訳くださいました。

Finland 100 Music History II  ~日本・フィンランド新音楽協会企画~

11月4日(土)17時30分開演  すみだトリフォニーホール小ホール
「フィンランドの100年の歩み」と題し前半にシンポジウム、後半にコンサートの二本立ての企画。

〈シンポジウム〉
登壇者:一柳慧(作曲家)
    越智淳子(早稲田大学客員研究員)
    セッポ・キマネン(チェリスト・前駐日フィンランド大使館参事官文化広報官)
    ユハ・T・コスキネン(作曲家)
司会:新田ユリ(指揮者・日本シベリウス協会会長)

(写真左から)
司会の新田会長
ユハ・T・コスキネン氏
通訳の福士恭子さん
セッポ・キマネン氏、
一柳慧氏
越智淳子氏


〈コンサート〉
カンテレによる演奏:カレヴァラのメロディ

カンテレ演奏 桑島実穂  町永潮音
ジャン・シベリウス=高畠亜生編:フィンランディア・ファンタジー 
ヴァイオリン 佐藤まどか  ピアノ 安田正昭

ユハ・T・コスキネン:弦楽四重奏第2番”Under a Ginkgo Tree in Tiergarten”(2014)

第1ヴァイオリン 中澤沙央里、 第2ヴァイオリン 迫田圭
ヴィオラ 般若佳子、 チェロ 西牧佳奈子


エイノユハニ・ラウタヴァーラ=ペーテル・ルンクヴィスト編:カントゥス・アルクティクス(極北の歌) 鳥の声とピアノのための協奏曲 作品61より

1.湿原 2.渡る白鳥 
ピアノ 福士恭子


ノルドグレン:チェロとピアノのためのエピローグ

チェロ セッポ・キマネン  ピアノ 小川至



ユッカ・ティエンスー:左手のための「エゲイロー」(2013)

ピアノ 舘野泉



一柳慧=中川統雄:ピアノメディア アンサンブル・ノマド版

アンサンブル・ノマド 
フルート・ピッコロ 木ノ脇道元
クラリネット 菊池秀夫
ヴァイオリン 野口千代光、花田和加子
ヴィオラ 甲斐史子
チェロ 松本卓以
コントラバス 佐藤洋嗣
マリンバ 宮本典子
ビブラフォン 加藤訓子
ピアノ 飯野明日香
ギター 佐藤紀雄



パンフレットにご挨拶文を寄せてくださった、駐日フィンランド大使ユッカ・シウコサーリ閣下のメッセージにもありましたが、フィンランド独立100周年の合言葉、キーワードは「一緒に・Together」でした。
 記念の年にフィンランドに関わる日本の協会の一つとして何かできないかと考え、今回の3つの音楽協会が手を携えることで、まさにフィンランドの歴史を音楽から紐解く内容の企画ができるのではと思い立ち、カンテレ友の会、日本・フィンランド新音楽協会の皆さんに相談をはじめたのが2015年の終わり頃。そこから各協会での討議を経て「スオミ100企画委員会」という別組織を立ち上げ3つの連携の形を作り今回の企画開催となりました。古の調べを持つカンテレから、フィンランドの音楽が世界に広がったシベリウスの世界、そして今なお世界の音楽界に新たな刺激を送り続ける現代のフィンランド音楽と日本を繋ぐ活動をしている、日本・フィンランド新音楽協会。1917年の独立宣言から100年目という昨年、その100年の歩みまでの時間にも踏み込みスオミ100企画委員会では3つの公演を準備・企画してゆきました。
 それぞれの協会の事情も異なりながら、想いは一つ。しかし3つを繋ぎ合わせることで生じる事務的な難しさもありました。11月は長時間の公演になったことで、ご来場のお客様に大きなご負担をおかけしました。会場において異なる所属のスタッフ間の連絡が行き届かなかったこと等々反省事項は山積みでした。いつもながらバックステージ、ロビーフロアーのスタッフの皆様には長時間大変な作業をお願いすることとなりました。深く感謝とお詫びを申し上げます。しかし、いずれの企画もフィンランドからこの企画にふさわしい素晴らしい方をお招きできたことはこの機会であったからこそと思います。

また舘野泉氏、一柳慧氏という二つの協会を強く牽引する音楽界の重鎮にこの企画の趣旨にご賛同いただけご参加いただけたことは、大きなことだったと思います。第1部、第2部ともに貴重な作品、素晴らしい演奏、様々な音楽的実りがありました。出演者の皆様にも深く感謝申し上げます。

11月、すみだトリフォニー小ホールの企画は日本シベリウス協会が運営スタッフの要として担当することをお願いしました。過去メモリアル企画をこのホールで連続して開催してきた実績があります。ホール確保も飯野事務局長にご尽力いただきました。スタッフの取りまとめとタイムスケジュール作成という最も大変なことは、澤田運営委員が一手にお引き受けくださいました。北海道支部からも四名ご来場くださり、フロアーではスタッフとしてもご尽力いただきました。理事運営委員の皆様を始めとして、一般会員の皆様もご協力いただきました。そして、事務局長飯野さん、事務局の人見さんにはこの企画発足当時から チケット管理をはじめとして様々なご協力をいただきました。当日はチーフスタッフとして多くの人が行き交うところを監督いただきました。

11月の集客は、第1部179名、第2部162名でした。9月のカンテレコンサートは満席でしたので100名ほどのお客様でした。企画運営への厳しいご指摘ご意見お叱りの言葉をしっかり受け止めながら、2019年、日本とフィンランドの修交100年の年に向かって、この連携企画が良い形でまた有意義なものを生み出していけるように皆様と意見を交わしてゆきたいと願います。ありがとうございました。

FINLAND 100 MUSIC HISTORY 第二部「フィンランド100年の歩み」レポート

SUOMI100 企画委員会:小川至

昨年11月4日、本協会も企画推進に深く携わったイベント「FINLAND 100 MUSIC HISTORY
が盛況のうちに終演致しました。長きに渡る演奏会・講演会でしたが、お越し頂いた皆様には先ずもって深く感謝を申し上げます。
本企画はフィンランド独立100周年となる2017年を記念して、日本国内においてフィンランドの音楽に深く関わる3つの組織―日本シベリウス協会、日本カンテレ友の会、そして日本・フィンランド新音楽協会―が合同となり、その歴史を両国に関わる演奏と講演で辿るというもの。各協会が担当する3つのイベントからなり、日本・フィンランド新音楽協会は「フィンランド100年の歩み」と題し、そのイベント全体の最後を飾りました。
「フィンランド100年の歩み」は、フィンランドの伝統楽器カンテレによる幽玄な響きで幕を開けました。前半は「今」を生きる日本とフィンランドを代表する文化人たち―一柳慧(作曲家)、越智淳子、セッポ・キマネン(チェリスト)、ユハ・T・コスキネン(作曲家)―と共に、日本シベリウス協会会長の新田ユリ(指揮者)の司会となるシンポジウムでした。越智氏によるフィンランドそのものの歴史の概略に始まり、コスキネン氏はその音楽的発展にシベリウスが与えた影響の大きさなどを説きつつ、現在まで繋がる膨大な数のフィンランド人作曲家の系譜のほとんどが実は「シベリウス以降」から始まっていることを示します。殊に第二次世界大戦後のフィンランド音楽の発展は目覚ましく、まさにフィンランドの新たな黄金時代と言える時代の到来が見られたのも戦後に至ってのことだったとのこと。エイノユハニ・ラウタヴァーラやカイヤ・サーリアホ、マグヌス・リンドベリ、指揮者としても活躍しているエサ=ペッカ・サロネンといった名前は聞き馴染みのある方も多いのではないでしょうか。
フィンランドの現在の音楽界の状況についてキマネン氏が語るところでは、国内には公的な援助を受けて活動するプロフェッショナルな楽団が、フルオーケストラでは15団体、室内楽団体では13団体存在するとのこと。これはフィンランドの人口が約530万、日本のおよそ20分の1しかないことと比較すれば、いかにその数が多いか感じられることでしょう。自身の作品をフィンランドの楽団に演奏されるなどの経験も持つ一柳慧氏は、男女同権や国家予算が文化に充てる割合の高さを挙げ、フィンランドを「成熟した国家」と評し、その音楽文化が国民にとって特別なものではなく、すぐそばにある身近なものとして存在しているという精神性の違いも感じたと言います。
一方でフィンランドの昨今抱えている課題なども同時に伺うことができました。経済的にも上昇傾向にあった70年代・80年代においては、音楽分野においても目覚ましいニュースや発展が毎年のように見られ、国家予算の割り当ても大きく取り扱われていたが、近年ではその動きに翳りが見えてきているといいます。若者の間でも、プロフェッショナルな音楽家になるために払われる努力や時間に対し、その報いとなる報酬が釣り合わないと感じる学生も少なくないなど、その点においては日本とも共通の課題と言えるのかもしれませんね。しかしそうでありながらも、一柳慧氏はフィンランドの消費税が30%という日本と比較すれば驚くべき高さに設定されていながら、国民一人ひとりが現在の生活やその将来を不安視しているような様子を全く感じなかったことや、ドイツやフランスを含め、文化が国家の発展、ひいては人間の成熟に与える影響の大きさに重きを置いているという実例を挙げながら、日本に蔓延している精神的困窮から抜け出すために、文化に対する意識レベルから改革していく必要があるのではないか、との警鐘を鳴らす場面もありました。
フィンランドや音楽だけに留まらない、非常に多くの問題提起と貴重なお話が折り重なっていったシンポジウムでしたが、新田氏は「これまでの積み重ねが現在のフィンランドを作り、そしてこれからの新たな道を模索してゆく。その解決はまだ遠い未来かもしれないが、道はまだまだ続いてゆく。「To be continued(続く)」フィンランド語では「Jatkuu」と言うが、この言葉で締めくくりたいと思う」とし、大きな盛り上がりの中に前半の講演会は幕を閉じました。

後半ではシベリウス以降のフィンランド音楽が並ぶ演奏会となりました。日本において、これほどに現代フィンランドを表し得る濃縮されたプログラムと演奏水準に一夜にして接することができるのは極めて稀なことです。プログラムは前掲された新田ユリ氏のご報告をご覧ください。
作曲家・高畠亜生氏の編曲によるヴァイオリンとピアノのための《フィンランディア・ファンタジー》はシベリウスの《フィンランディア》から自由な発想で編曲されたもので、佐藤まどか氏の火花の散るような情熱的な演奏が会場を沸かせました。前半にも登壇されたコスキネン氏が作曲した、凝縮された緊張感を持つ弦楽四重奏曲第2番《Under a Ginkgo Tree in Tiergarten》(2014)は、作曲家が現在拠点としているベルリンにある、文豪ゲーテの像が聳える「ティールガルテン」の銀杏の木から霊感を得た作品とされています。奏者たちの若々しい感性も相まって、静謐ながら瑞々しい音響空間を作り出していました。鳥の声の録音と共に奏でられるラウタヴァーラの《カントゥス・アルクティクス》(1972)は「極北の歌」と訳される通り、北方の持つ幽玄な雰囲気が印象的です。本来はオーケストラのために書かれた作品ですが、ここではピアニストとも親交の深いルンクヴィスト氏によるピアノ編曲が演奏されました。冷涼な空気が立ち込めるような瞑想的な音楽が、福士恭子氏の深い解釈とともに一層の幻想性を与えていました。シンポジウムにも登壇されたセッポ・キマネン氏自身も親交のあった作曲家であるノルドグレンの《エピローグ》(1983)は全編にわたって静寂に包まれた音楽です。キマネン氏の友人でもある作曲家への深い共感をも感じさせるような、極めてセンシティヴな演奏を聴かせてくれました。現代のフィンランドを代表する作曲家のひとり、ユッカ・ティエンスーがその演奏家に捧げた《EGEIRO》(2013)を、献呈者本人である舘野泉氏が息を飲むような集中度で奏で上げました。その充実した響きと奥行きのある音楽的内容は、左手だけという条件を忘れさせるほどです。プログラムの最後は、我々の協会の理事長も務められる一柳慧氏の《ピアノ・メディア》(1972)で締めくくられました。中川統雄氏の編曲によって響きの可能性を拡げられたこの作品は、アンサンブル・ノマドの皆様による精緻なアンサンブルによって見事に纏めあげられ、演奏会は冷めやらぬ熱気を伴ったまま幕を閉じてゆきました。

終演後の外は小雨の降った跡があり、穏やかな気温に包まれたまま、面々は打ち上げ会場へ。ここでもフィンランド・日本両国の豊かなコミュニケーションを見ることができました。こうした二国間の繋がりも、2年後の2019年には日フィン修好100周年を迎えます。この企画が「もうひとつの100年」に向かい、一つの大きな発展と足掛かりになることを期待しています。
この企画を開催するにあたり、本当に多くの方のご協力を頂きました。ご来場して下さった皆様はもちろん、応援してくださった皆様、この企画に関わってくれたすべての皆様へ感謝を込めて。本当にありがとうございました!


2017年11月4日 Finland 100 Music History
フィンランド独立100周年記念シンポジウム  

SUOMI100 企画委員会:福士恭子

フィンランド独立までの歴史、そして現在につながる社会における音楽の役割を紐解くことを目的に、シンポジウムが開催されました。フィンランドから日本にもゆかりの深いチェリスト セッポ・キマネン氏、作曲家ユハ・T・コスキネン氏をお招きしてシンポジウムを開催出来たことは、大きな喜びでした。日本側からは日本・フィンランド新音楽協会会長 一柳慧氏、また在フィンランド日本大使館で広報されていた越智淳子氏をパネリストとして、日本シベリウス協会会長 新田ユリ氏による司会進行にて、多岐に亘る話が展開されました。フィンランドの現状のみならず世界共通の問題点も浮き彫りにされ、社会との関わりにおける音楽家の在り方も強く意識された討議となりました。
冒頭、悠久の時を感じさせるカンテレの演奏に続き、新田氏によりスライドとともにフィンランドの歴史、音楽家が紹介されました。
以下シンポジウムの概要を記載します。(以下敬称略)

【1917年前後のフィンランド】

新田 : 1865年生まれシベリウスは、ふたつの世界大戦を体験していますが、20世紀初頭のフィンランドではドイツからの音楽家が中心で、フィンランド独自の音楽はロシアの統治下、シベリウスの時代に始まります。その辺りの歴史的概要をお話頂けますか?

越智 : フィンランド人が定住したのが紀元1世紀ごろ、キリスト教伝来は11世紀と言われています。北東ヨーロッパでロシアとスウェーデンによる領土争いが長く続いた結果、1323年にフィンランドはスウェーデン領に組み込まれました。その後500年間スウェーデンの支配下にあり、1809年ロシアに割譲されました。スウェーデン時代には一地方であったフィンランドですが、ロシア統治下では啓蒙君主を自認しているアレクサンダー1世がフィンランド大公となり、フィンランドに自治権を与え、次のアレクサンダー2世と共に寛容な政策をとりました。その頃民族叙事詩「カレワラ」の編纂など国民に民族意識が芽生え始めます。ニコライ1世の時代にはフィンランドにおけるロシア語政策など締め付けが厳しくなり、独立運動に拍車がかかるようになりました。そこに1917年ロシア革命の2月革命、10月革命が勃発。その機に乗じてフィンランドは同年12月6日に独立宣言をします。ソビエト政権はフィンランド独立をすぐに承認しましたが、ソビエトの支援を受けた赤軍、それに対抗するドイツとスウェーデンの支援を受けた白軍による内乱が起き、マンネルヘイム将軍率いる白軍が勝利、1918年5月にヘルシンキで勝利宣言をします。その結果フィンランドは西側諸国としてソビエトの影響下に入りませんでした。当時シベリウスの民族的な音楽、特に「フィンランディア」が国民にとっていかに大きな精神的な支えだったか、これからお話にでてくるかと思います。  

新田:内戦のお話が出ましたが、シベリウスの弟子であった作曲家トイヴォ・クーラが内戦の折、軍隊内の銃の暴発によって亡くなり、若き大きな才能を失ったことでシベリウスも悲しみにくれました。自身も兵士を鼓舞する曲をいくつか書いています。1917年独立当時、シベリウスは52歳であり、その後40年余り生き続けますが、その間にも今に名を残す素晴らしい作曲家がいました。こちらにいらっしゃるコスキネンさんは幼い頃、作曲家アウリス・サッリネンに強い影響を受けたと聞いています。シベリウス存命の時代、そしてその後と、before Sibelius 、after Sibeliusという分け方をしている本もあります。またはまったくシベリウスの影を感じさせない独立した意識でシベリウスから離れたフィンランドの音楽を確立した人、世界の潮流にのりモダニズムなど新しい波に乗った人など世界的に活躍している方々が沢山いますが、コスキネンさんにシベリウス後の作曲家について視点を写してご説明いただければと思います。

コスキネン:フィンランドにとって1917年前後の時代は難しい時期でした。その頃のシベリウスの作曲活動は第6,7交響曲、タピオラ交響曲、シェイクスピア劇に基づく劇音楽テンペスト、そしてその後「アイノラの静寂」が訪れるわけです。誰もシベリウスの本当の状況はわからないのですが、作品が全く出版されなくなりました。 1920年に入ると重要な作曲家が現れてきます。アーッレ・メリカント、ヴァイノ・ライティオ等がまったく違った音楽を生み出しました。ヨーロッパ、ロシアで勉強してきた作曲家により、表現主義、印象主義と言える潮流が生まれるわけです。その時代、問題は作品が演奏されないことにありました。それは作曲家にとって最悪とも言える状況です。特にアーッレ・メリカントの素晴らしいオペラ「ユハ(私と同じ名前ですが 笑)」などが例として挙げられます。ちなみにユハは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハンになります。
第2次世界大戦後にはエイノユハニ・ラウタヴァーラ、さきほどお話に出たアウリス・サッリネン、ヨーナシュ・コッコネン、エリック・ベルグマンなどによりフィンランドの新たな黄金時代が築かれました。彼らの多くは海外で学んだ後、ドデカフォニック(12音音楽)などを紹介、シベリウス・アカデミーで後進の指導にあたりました。 70年代後半のアカデミーではフィンランドが更に世界へ門戸を開かなければという意識のもと、「耳を開け」というグループが立ち上げられました。現在活躍しているカイヤ・サーリアホ、マグヌス・リンドベルィ、指揮者としても有名なエサ・ペッカ・サロネンなどにより創設されました。私は1990年代にアカデミーにて1年サーリアホの元で勉強しました。その後フランスのIRCAMにて学びましたが、当時のフィンランドでは国際的な動きが急速に強まってきた時代でした。  

新田:フィンランドにはMusic Finlandというウェブサイトがありますが、ここには、クラシック音楽だけに限らず、ポピュラー、民族音楽すべての情報が集めてあります。実はフィンランドにはクラシックというカテゴリーがなく、シベリウスもコンテンポラリーというカテゴリーの中に名前があります。このウェブサイトはここに407人の作曲家の全ての顔写真とデータが並んでいて、これからのフィンランドでの動きもアクティブに表示されているサイトです。
 

【フィンランドの昨今の状況】

新田 : 日本に比べると人口が少ないフィンランドですが、世界で活躍するハイレベルな音楽家が多いですね。
 
キマネン:作曲家の数を考えるとフィンランドにはオーケストラが少ないと言えるでしょう。15のフルオーケストラと13の室内管弦楽団が国のサポートを得て成り立っています。530万人程のフィンランドの人口を考えると、19万人にひとつのオーケストラが存在するという計算になります。ドイツと比較すると80万人にひとつという状況ですので、4倍好条件だと言えるでしょう。
 
新田:フィンランドは日本の9割の国土を持っていますが、森と湖の国ということもあり、人の住む面積というのが限られています。そのような中で文化があふれていることを羨ましく思います。アヴァンティ・フェスティバルに招聘された一柳先生のフィンランドに対するご意見を頂ければと思います。
 
一柳:100年というと若い国という印象がありますが、私が初めに得たフィンランドの印象は非常に成熟した国だということです。女性の社会進出、教育の無償制度、政治や社会状況を考えても非常に進んでいます。昨日、京都でアメリカのアーティストとシンポジウムを行いましたが、アメリカは本当に若い印象があります。移民が多い、歴史に対してのこだわりがない、むしろ歴史を拒絶する人もいて、自分たちの国で歴史を作るという意識があります。また、フィンランドはインターナショナルな国という印象があります。いろいろな国が混ざり合い、フィンランドからも多くの人が海外で活躍しています。コスキネンさんも21世紀を代表する若い作曲家の一人であると言えるでしょう。音楽がこの50年100年で盛んになったのは、第2次大戦後、戦争によって抑圧を受けた人々の状況が改善され、開放的な時代を向かえたことで、文化、精神面での芸術が一挙に昂揚しました。昨日のシンポジウムで話したのはアメリカのモダンダンスの人々で、バレエの後にモダンバレエ、モダンダンス、ポストモダンダンスと続き、今はコンテンポラリーダンスの時代と言うそうですが、戦後の昂揚した時代から比べると72年の間に、精神文化面での落ち込みが見られるとの話になりました。指揮者、作曲家、演奏家を含めて音楽が日常生活の環境を形成する、音楽が特別ではなく、環境の中に当たり前のものとして存在するべきです。フィンランドはそういった意味で、成熟した国という印象を受けました。

 
【フィンランドから見た日本】

新田:ある種の民族的なものを発展させるか、融合させるか、歴史的な評価につながってくるかと思います。コスキネンさんは日本の愛知県立芸術大学で日本の若者を通して1年間日本の文化にも触れられ、越智先生はフィンランドにて日本の文化交流をされたということで、それぞれの文化状況の印象、いにしえの文化にも触れていただき、お話ください。   

越智:音楽教育に関連してお話したいと思います。シベリウスの時代には音楽がフィンランド人の精神的な支えになりました。日本では明治に入り、音楽教育を始めるにあたり、文部省からアメリカへ視察に行き、アメリカの音楽教育を直輸入した結果、日本の音楽教育は西洋音楽に基づく形で浸透しました。その意味で音楽教育は最も西洋化が定着した分野とも言えます。一方で、一柳先生はじめ、日本の伝統楽器への関心の高まりや、また伝統音階や調べは消えるものではないと思います。フィンランドでは伝統的な楽器であるカンテレを習得する文化や教育があると聞きますが、日本の音楽教育について、フィンランドから見てどのようなご意見をお持ちでしょうか。  

コスキネン:私にとって日本の学生との接点は貴重な経験でした。今はインターネットを通しての情報、たとえば楽譜やレコーディングも共有できるため、日本、フィンランドの学生にも多くの共通性を感じましたが、外へ向ける眼の違いを感じました。
現在、私はドイツに在住していますが、フィンランドは中央ヨーロッパから離れているためかフィンランド自体あまり知られていない。不思議な言語を話す国と言う印象です。また、フィンランドでは女性の作曲家が活動しにくい現実があります。サーリアホのような大作曲家が海外に住んでいますが、フィンランドではシベリウスの男性的なイメージがあるため活動しにくいのか、疑問に思います。  


【伝統楽器との関わり】

新田:カンテレは子どものころに勉強するものですが、日本では伝統音楽における家元制度などがありますね、その辺りフィンランドとの違いが感じられますか?  

キマネン:箏はカンテレに比べ演奏が難しいですね。5弦カンテレはだれでも演奏でき、グループでアンサンブルを学び、演奏することができます。また一方でハープのような大きなコンサートカンテレを演奏会で聞くこともできます。5弦に比べ、大きな音も味わえますし、エレクトロニックサウンドも表現できます。最近、天才的なカンテレ製作者ハンヌ・コイスティネンがこのテーブルの半分ほどの大きさの、4人の奏者が違う音域を演奏できるカンテレを発明しました。そのカンテレでブギウギ、民族音楽、シンフォニーなど多彩な音楽を演奏するといった面白い動きがあります。

新田:民族楽器を使ったポップスの潮流などのコラボレーションなどについてお感じになられることはありますか?  

コスキネン:今ちょうど箏とカンテレについての作曲を行っています。ハープのような大きなカンテレと琴の作品です。箏の伝統的な技術について学ばなければいけませんが、作曲家は伝統楽器への歴史、誇りを大切にすることが重要です。  


【Real Finland】

新田 : ここでフィンランドの現状を、問題提起も含めてお話下さいますか?  

キマネン:70年、80年代のフィンランドは豊かな経済発展に伴い国も芸術分野、教育への補助が盛んでした。ところが現在、政治は経済重視に偏り、文化面へのサポートが減っています。音楽活動への削減がとまらない。そのため残念なことに音楽を目指す若者が減ってきています。私が教えていたヨエンスー市の音楽学校の才能豊かな学生でも、音楽家の収入が不安定という理由で、職業として医者、法律家、弁護士を選ぶという現状です。  


【今後の音楽の在り方】

新田:最後にこれからのフィンランド、日本における音楽シーンに対するご意見を頂けますか?
 
一柳:一番大事なのは、安心して将来を過ごせるか、です。経済、政治状況が安定することが国民にとって大切です。フィンランドは日本に比べて高い消費税でも、落ち着いた社会の在り方を見ると、フィンランドの人々の生活、表情からは将来への保障がなされている安心感が感じられます。日本でも芸術分野への意識が教育も含め、もっと進んで欲しいと思いますね。  

新田:さまざまな視点からのご意見をありがとうございました。最後に、シンポジウムを締め括る言葉として”To be continued. “フィンランド語で”Jatkuu.”を挙げたいと思います。独立100周年を迎える今、フィンランドはこれまで積み上げてきたことの成果を糧に、新しい道を模索していくでしょう。 2年後の日本・フィンランド修好100周年を迎えるにあたり、また新たな動きを考えていきたいと主催者側は考えています。
本日はありがとうございました。

 
登壇者

一柳 慧 Toshi Ichiyanagi
1949年毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門第1位入賞。ジュリア―ド音楽院在学中クーリッジ賞、グレチャニノフ賞受賞。留学中にジョン・ケージと知己を得、偶然性や図形楽譜による音楽活動を展開。尾高賞5回、フランス文化勲章、毎日芸術賞、
京都音楽大賞、サントリー音楽賞他受賞多数。2008年文化功労者。2016年度日本芸術院賞及び恩賜賞受賞。現在、神奈川芸術文化財団芸術総監督、日本・フィンランド新音楽協会理事長。

越智 淳子 Junko Ochi
英国、ノルウェー、ハンガリー、フィンランドの日本大使館で広報、文化交流に携わる。海外での日本文化紹介事業としてジャパンフェスティバル1991(英国)、ノルウェーでは、オスロのウルティマ現代音楽フェスティバル日本特集の実現に関与するなど、各国で伝統文化から現代作品まで日本文化を幅広く紹介してきた。
早稲田大学地域・地域間研究機構アジア北米研究所招聘研究員。大岡信研究会運営委員、日本・フィンランド新音楽協会理事。

セッポ・キマネン Seppo Kimanen
シベリウス音楽院を卒業後、プラハ音楽院、パリ音楽院、デトモルト音楽大学に留学、ロンドンでも研鑽を積む。1974~1977年フィンランド放送交響楽団の首席奏者、舘野ピアノ・トリオ、シベリウス・カルテットメンバー。1971年~トゥルク音楽院、1975~1991年シベリウス音楽院にて後進の指導にあたる。1970年ヴァイオリニスト新井淑子とともにクフモ室内楽音楽祭を創設。1988年フィンランド国家音楽賞、2000年フィンランド国家芸術家教授職を受賞。

ユハ・T・コスキネン Juha T. Koskinen
シベリウス音楽院修士課程作曲専攻修了後、リヨン音楽院、IRCAMに学ぶ。海外のオーケストラ、音楽祭から数多く委嘱を受け、国際的な評価が高い。主な作品に三島由紀夫の戯曲「サド侯爵夫人」(2010)、フィンランド放送局委嘱、交響曲第1番(2006)、ラジオ・フランス委嘱「Ophelia/Tiefsee」(2017)プレゼンス・フェスティバル(パリ)初演。2016年愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻客員教授。

司会
新田 ユリ Yuri Nitta
国立音楽大学卒業後、桐朋学園ディプロマコースに進み、指揮を尾高忠明、秋山和慶、小澤征爾、小松一彦各氏に師事。1990年ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト。1991年東京国際音楽コンクール第2位入賞。東京交響楽団を指揮してデビュー後国内楽団へ客演。2000年文化庁芸術家在外研修生としてフィンランド・ラハティ交響楽団にて研修。以後フィンランドをはじめ北欧のオーケストラにも客演を続ける。愛知室内オーケストラ常任指揮者、日本シベリウス協会会長。

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