写真家木之下晃とフィンランド

木之下貴子

2015年1月12日、父、木之下晃が他界しました。音楽写真家と呼ばれ、「音を撮る」ことに全精力を注いだ人生でした。そんな父にとって別段の存在だったフィンランドとの絆がどんなものだったのか…僭越ではありますが、ここに記して参ります。

シベリウスに興味があった父は、渡邉暁雄さんと出会い親交を深めていく中で、フィンランドとの関係も深めていきました。では、なぜ、渡邉暁雄さんと父が被写体と撮影者という関係を越えて親しくなったかというと、日芬国交樹立前の信濃地方まで話しが遡ります。

1900年。フィンランド福音ルーテル教会は、2人の女性宣教師を日本に派遣します。
長崎に降り立った彼女たちは、布教をしながら、はるばる長野の諏訪湖に辿りつき、満々と水をたたえた美しい湖と、湖畔の白樺の樹々を見て「スオミに似ている!」と、ここに日本での最初の宣教地をおきました。2人の宣教師の名はエステリ・クルヴィネン(Esteri Kurvinen)とシィーリ・ウーシタロ(Siiri Uusitalo)。1905年には下諏訪に洋館造りの礼拝堂を建てました。2人と諏訪の人達は良好な関係を築いていったのでしょう、その年のクリスマスには4人の青年と2人の女性が洗礼を受けるのですが、その中の一人が渡邉忠雄さん、暁雄さんのお父様でした。渡邉忠雄さんは当時旧制諏訪中学(現・諏訪清陵高校)に通う学生で、卒業後はヘルシンキのフィンランド神学校へ留学、そこでヘルシンキ音楽院(現・シベリウス音楽院)に通う声楽家シィーリ・ピトカネン(Siiri Pitkanen)と恋に落ち、結婚して帰国します。1913年に郷里の諏訪教会に赴任し、そこで二男として生まれたのが暁雄さんです。

一方、父も長野県の諏訪市生まれで諏訪清陵高校出身。暁雄さんと同じ場所で生を受け、お父様の後輩であることがわかると、暁雄さんは父に目を掛けてくださるようになります。ちなみに夫人のシィーリさんは、父の親、私の祖父が10歳の時に、生まれて初めて出会った外国人だったといいます。「西洋人形のような人だった」と語っていたのを父は記憶しており、先代から続いていた不思議なご縁を受け継ぐようなかたちで、父にとって渡邉暁雄さんはかけがえのない存在になっていくのです。

日本とフィンランドが文化協定を結び、人物交流の第1号としてフィンランド政府から父が招聘されたのも、渡邉暁雄さんが推薦してくださったからでした。2回に渡る招聘でトーヴェ・ヤンソン(画家・作家)、エイノユハニ・ラウタヴァーラ(作曲家)、ティモ・サルパネヴァ(デザイナー)、ヨーナス・コッコネン(作曲家)、エイラ・ヒルトネン(彫刻家)等、フィンランドの芸術文化を牽引してきた約50名を撮影する素晴らしい機会に恵まれました。さらに、舘野泉さんとシベリウスの足跡を訪ねたり、セッポ・キマネンさん、新井淑子さんといったフィンランドゆかりの音楽家との交流の中からクフモの音楽祭も撮影するようになったり、1984年のシベリウス協会の発足時には発起人に名を連ねたり…。父にとってフィンランドもまた、特別な存在となっていきます。

渡邉ご夫妻と両親とでフィンランドを訪ねた時のことは「心温まる旅だった」と常々言っておりましたし、トーヴェ・ヤンソンさん生誕100年の折には『ヤンソンとムーミンのアトリエ』(講談社刊)という絵本のようなフォトエッセイ集を出していただき、大変喜んでおりました。一柳慧さんとの出会いもしかり。フィンランドと出会ったことで父の人生はより豊かになっており、皆さまの生前のご厚誼に感謝するばかりです。

写真家として最後までフィルムでの撮影と現像にこだわり、3万本ものフィルムが手元に残りました。今後は大切に保管して、音楽が好きな方、フィンランドが好きな方に見て頂ける機会を作っていきたいと思っております。また父は「フィンランドで写真展をやりたい」と折に触れて言っておりました。なんとか開催させる道はないものかと動き始めているところです。お力添えをいただけますと幸いです。

プロフィール
木之下貴子
木之下晃の次女。大学卒業後、ラジオアナウンサーとして活動を開始。現在もフリーで仕事を続けている。
2010年株式会社木之下晃アーカイヴスの設立と同時にフィルムで撮影された写真のデータベース化などを手掛ける一方で、父とのフォトトークセッションなども展開。写真家木之下晃が残した作品を後世に伝えていくのを使命とする。http://www.kinoshita-akira.jp/