フィンランドから学んだこと

池辺晋一郎

フィンランドへ行ったのは一度だけ。2007年9月だった。
東京の同国大使館から突然電話があり、渡航を要請されたのは、Y新聞に毎月書いているエッセイで没後40年のシベリウスを扱ったためだったようだ。ラハティでのシベリウス音楽祭を聴いてほしいということだったが、ぴたりの日程で行くことはむずかしく、同音楽祭のほんの一部を少しだけ聴くことになった。もちろん僕としては、フィンランドの、ことに近年の音楽専門教育の驚くべき成果に瞠目していたから、行けば得るものが大きいことは十分に予測したし、期待に胸が膨らんだのである。

かの国の文部省の招待という形である。僕は妻を伴った。僕は初めてだが、妻はかつてロシア旅行の際に立ち寄ったので、2度めのフィンランド。

一週間ほどの滞在の体験をつぶさに記す余裕はないが、とにかく感嘆したのは、その合理主義精神だった。         
ヘルシンキ空港で僕たちを待っていたのは、若い役人。にこやかに出迎えてくれて、とても感じがよかったが、ホテルまで送ってくれるとすぐに姿を消した。渡してくれたのは、翌日からのスケジュール表と、タクシー・チケット、そして市内電車のプリペイドカードである。翌朝はたしか音楽祭の事務局長を訪ねたのだが、僕たちを案内するために係がホテルまで来たりはしない。初めてのヘルシンキ市内を、市内電車に乗り、地図を頼りに歩いたのである。ベタベタされるよりずっとラク。ホスピタリティのこの方式には、なるほどと肯ずるしかなかった。 文部省の高官という方から昼食のご招待を受けたのは2日めだったか。これも、市電でレストランへ直行。北海の海鮮を期待したらイタリアンだったのにも驚いたが…。

フィンランド放送交響楽団の事務所訪問も同様だった。市街地から少し離れた所にある同団まで、市電に乗って行く。何しろ知らない街の知らない場所だから、用心して早めに行った。と、誰もいない。入り口にいる人に来意を告げたが、さっぱり埒があかない。人を呼んでおいてこの対応は何だ!と少々腹も立つ。20分くらい、何をしていたか、記憶が定かでないが、やがて定刻になると入り口に担当の女性が現れ、「ミスターイケベか?」と問うのである。繰り返すが、それはまさに定刻だった。要するに、早めに着いた僕が勝手にうろたえただけ。   すでに終盤に近づいたシベリウス音楽祭を少しでも聴くべく、ラハティへ向かう際も同じ。指定の特急列車に乗って行けば、あとはすべて用意されていたのである。あらゆることが、実に合理的。たいしたものだ…唸るしかなかったです。

同国の現代作曲作品が完璧にファイリングされているライブラリーや、シベリウス音楽院も視察したが、やはりそのシステムの徹底には感嘆せざるを得なかった。考えてみれば、携帯電話等に代表される工業製品や、近年評価が高い家具その他のデザイン、またファッションなど、同じ精神に裏打ちされていることが明らかだ。
そして、誰もが英語をほとんど母国語のように話すことにも驚いた。が、これは分かる。フィンランド語が通じるのは、たかだか500万人余。オランダに留学した若い作曲家が一時帰国した際に、オランダ語は覚えた?と尋ねたら、オランダ語なんて全く使いませんよという答えが返ってきたが、これも同様だろう。他と隔離された島国で、しかも1億人以上がそこに住むどこかの国とは事情が違う。子どものころから英語を自由に操ることができなければ、どこへも行けないのだ。

合理性のフィンランドとは全く対極にあるような国・地域へも僕は行っているが、そこからも多くの魅力的な教示を得た。要するにどこでも、それぞれの民族性や歴史に見合う独自の眼差しとシステムを持っているということ。

独自性といえば、この私たちの国ほどそれに関して豊かな所はないのではないか。にもかかわらず、この国は他者──ことに大国の動きに流されやすい。軍隊を持たない憲法を持つことに誇りを抱き、独自のシステムを保持すべきだと思う。訪れる人すべてが、最初の一歩で、その独自性を肌で感じるほどに。
フィンランドから、僕が学んだことのひとつは、間違いなくそういうことであった。


プロフィール Shinichiro IKEBE
水戸市生まれ。1971年東京芸大大学院修了。66年日本音楽コンクール1位。以後、ザルツブルクTVオペラ祭優秀賞、イタリア放送協会賞3度、尾高賞2度、毎日映画音楽賞3度、日本アカデミー賞優秀音楽賞9度、放送文化賞、紫綬褒章など。作品:交響曲8曲、オペラ10曲他。映画・演劇・放送音楽多数。著書多数。横浜みなとみらいホール館長、東京オペラシティ・ミュージックディレクター、石川県立音楽堂洋楽監督他。東京音楽大学教授。