『音楽の娘たち』
小川至
近年フィンランドのクラシック音楽では、歴史の陰に埋もれた女性作曲家に対する研究に大きな注目が集まっています。フィンランドの著作権管理団体であるTEOSTOが2022年1月に発表した「2022年のクラシック音楽のトレンドは何?」という記事で示された5つの傾向のうちの1つに、「コンサートにおける女性作曲家の作品使用の増加」が挙げられました。その背景の1つとして、様々な音楽関係機関が協同で立ち上げた学術的プロジェクト「History’s Unheard Orchestra Music(HUOM)」が関係していると言えるでしょう。HUOMでは、主にフィンランドの女性作曲家に関する資料を掘り下げ、その作品の発掘・演奏・出版を進めています。本プロジェクトを通して、歴史的に既存の権力構造によって黙殺されてきた音楽や、忘れ去られた作品の真価を問うことで、改めてフィンランドにおける音楽文化、芸術分野、社会状況をより正確に把握し、包括的に理解することを目的としています。この活動を通して、これまで男性作曲家が圧倒的に占めていたこれまでのコンサートプログラムに、徐々に変化が生まれてきています。
このプロジェクトの一環として、フィンランドの音楽学者であるスザンナ・ヴァリマキ、ヌップ・コイヴィスト=カーシク両女史が中心となり、フィンランドの歴史における女性作曲家たちの人生と音楽について論じた書籍『音楽の娘たち:18世紀後半から20世紀初頭までのフィンランドの女性作曲家たち』の刊行計画が進められています。本記事は、フィンランドの音楽情報サイト、FMQ(フィンランド音楽季刊誌)にて掲載された、この刊行計画から派生した連載記事である「フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典」第1回(2019年2月8日掲載)の邦訳です。
+++++++
フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典/
第1部:男女平等のために戦う活動家たち
スザンナ・ヴァリマキ、ヌップ・コイヴィスト=カーシク著
フィンランド音楽の歴史において、作曲を行った女性は意外にも数多くいる。19世紀から20世紀初頭までの時期だけを見ても、30人近くもの興味深い人物を見出すことができるだろう。本シリーズはこれらの女性たちの生活と音楽について論じている。これは読者諸君が、フィンランドの古典的な作曲家における、未だ調査されていない大部分を学ぶ上で、非常によい機会である。この最初の記事は導入の役割を果たしており、こうした音楽に声を与えたヴァイオリニストのミルカ・マルミによる一連のコンサートシリーズも紹介している。
ファニー・マンセン(1834-56)はトゥルクで生まれた作曲家・ピアニストである。彼女はフィンランド音楽史の中でも稀なほどの神童であった。12歳の頃、ピアニストでもあった母カロリーナ・マンセンに連れられサンクトペテルブルクに学びに向かい、その地でわずか21歳の時に流行り病に倒れてしまった。この短いキャリアの中で、彼女はリサイタルを開き、音楽を書き、ヴィルトゥオーゾとしての名声―19世紀における名の知れた10代になること–を確固たるものとした。
サンクトペテルブルクでは、ファニーはこれ以上ない学習を受けた。彼女が最も長くついた恩師は、伝説的なピアニストであり作曲家でもあったアドルフ・フォン・ヘンゼルトであった。彼女はさらにアントン・ゲールケにピアノを学び、作曲をおそらくアンリ・ヴュータンに学んだ。マンセンがサンクトペテルブルクで出版したピアノ作品が、少なくとも2つあることを我々は知っている。《さよなら(オーボの思い出、憂鬱な幻想曲)》と、《ゆりかごの歌》である。しかし記録を掘り下げていったにも関わらず、17歳の新進の作曲家によって書かれたこれらの作品の楽譜を見つけ出すことはできなかった。(2019年5月23日に追加:マンセンの《さよなら》の楽譜はそののち、シベリウス・ミュージアム記録保管係、サンナ・リンヤマ=マンネルマーの尽力のお陰で発見された。)
マンセンの生涯と失われた作曲作品は、我々が19世紀に生まれたフィンランドの女性作曲家を研究する中で発見した興味深い物語の、ほんの一例でしかない。ほとんど未踏と言えるこの領域への我々の冒険は、驚きや手掛かり、隠れた財宝などに彩られたものだったが、これらは骨の折れるアーカイブの調査、多くの書類が永久に失われているという現実、偶然や推量の成果によってバランスを取って余りあるものであった。
ジェンダーの平等を促す音楽史
我々の出版プロジェクト『音楽の娘たち:18世紀後半から20世紀初頭までのフィンランドの女性作曲家』はまだほんの初期の段階にある。しかし、我々は既に、これらの作曲家の生活のうちに規則的に浮かび上がるパターンを認識するための十分な情報を得ている。それは国外への留学、コスモポリタンな生活を(部分的に、あるいは完全にフィンランド外で)送っていること、進歩的な社会活動(女性の権利、教育政策、慈善活動)に参加していること、作曲と演奏活動、あるいは教育活動を組み合わせていることである。
こうした作曲家たちの多くは、実際に自身の生涯のうちに作品を出版し、音楽でのキャリアを成功させたが、音楽史はその後、彼らをほぼ完全に無視している。
作曲を行う女性の生活は、当時一般的であった性的差別によって抑制されていたが、一方でその境界線を破ることや意志の強さ、オルタナティブカルチャーの確立、国境を越えた女性作曲家たちの共同作業などによって特徴づけられていた。その多くは、当時の性的認識における一般論から大きく逸脱した、極めて急進的なものであった。つまり、フィンランドの女性作曲家の歴史は、フィンランドの性における問題やジェンダー・マイノリティの歴史と大きく重なっているのである。
しかし、何よりも驚くべきことは、自身の手で音楽を書こうと挑んだ女性が、これほど多くの数がいたということである(このシリーズの紹介記事を参照のこと※1)。しかし、ヘルシンキ音楽学校(後にヘルシンキ音楽院、また後にシベリウス音楽院)創立時の1882年から1950年代にかけて、その生徒の大半が女性であったことを我々は覚えておかねばならない。実際に、作曲とヴァイオリンの両部門でこの学校の生徒における最初期の花形であったのは、アイネス・チェチュリン(1859-1942)という女性であり、彼女は国外でそのキャリアを打ち立てた。社会的に不利な立場に立たされながら、女性は長い間フィンランド音楽における主要な演奏家であったにも関わらず、無視されたのである。
従って、フィンランド音楽について、既に確立されたものから逸脱した物語を語る必要があるのである。リーッタ・ヴァルケイラとピルッコ・モイサラによる先駆的な書籍である『音楽における異性(原題:Musiikin toinen sukupuoli)』(1992)では、20世紀の変わり目に位置する8人のフィンランド人女性作曲家を紹介しているが、それはオリジナルに起因する記録資料に基づいているものではない。いくつかの学術論文や学位論文には個々の作曲家について書かれたものがある。例としては、エイラ・タラスティによる『立ち上がれ、輝け:ヘルヴィ・レイヴィスカの生涯と作品(原題:Nouse, ole kirkas: Helvi Leiviskän elämä ja teokset)』(2017)と題した、ヘルヴィ・レイヴィスカ(1902-82)の伝記的研究がある。
こうした女性たちが遺した音楽を掘り起こすことは時に困難を伴うものだが、我々が見出したものは非常に魅力的で新鮮であり、刺激的なものである。長く失われた作品たちに目を向けると、そうした音楽への探求が女性にとって不適切である、あるいは許容され得ないと見做されていた時代に立ち向かい音楽を記していった、強靭な意志を持った女性たちとダイレクトに繋がってゆくような気持ちがするのである。彼らの音楽は彼らの声であり、もしも我々がそれに耳を傾けさえすれば、それは我々の時代に運ばれていくのである。
ヘルヴィ・レイヴィスカの音楽は、大規模な形式、人生の根源的な問いに対する神智学的な論争を特徴としている。
彼女の音楽は、しばしば探求的、あるいは探究的に聞こえる。
※1 同訳者による邦訳文が以下に掲載されている。https://note.com/itaruogawa/n/n52a04ac73bec
ヴァイオリニストのミルカ・マルミが音楽で女性に声を与える
ヴァイオリニストであるミルカ・マルミ(b. 1977)は2018年から2019年にかけて、ヘルシンキ地区で7つの一連のコンサートを企画しており、北欧の女性作曲家たちによる1850年から1950年にかけて書かれたヴァイオリンとその他の楽器による室内楽作品に焦点を当てている。
マルミの日々の仕事はフィンランド放送交響楽団とともにある。彼女はシベリウスの生誕150周年となった2015年に、サークスマキ音楽祭での演奏曲目を探している最中に、女性によって書かれた音楽に対する天啓を得たという。「私はシベリウスの生まれた年(1865年)に書かれた音楽を探していて、その時にスウェーデンの作曲家、エルフリーダ・アンドレーのピアノ五重奏曲と出会いました。それが素晴らしいもので、それに導かれてその他の女性作曲家を、最初にスウェーデンの作曲家を見つけることになり―なぜなら彼らの情報を得ることがより簡単だったからです―、その後にフィンランドの作曲家を見つけ出しました。」
2017年3月にマルミはフィンランド放送交響楽団の室内楽シリーズで「北欧の女性たち Pohjoismaisia naisia」と題したコンサートを開催した。「このコンサートが非常に好評だったので、思い切って同様のコンセプトによる全体で7つのコンサートとなるシリーズを計画しました。」2月10日に予定されている次なるコンサートは「フィンランドの女性たち」と題されており、ここではヘルヴィ・レイヴィスカの室内楽作品を取り上げている(FMQのYoutubeチャンネルから視聴可能)。8月には、「ロマンス Romanssi」と題したコンサートで、チェチュリンやイダ・モーベリ(1859-1947)、ラウラ・ネーツェル(1830-1927)らのヴァイオリンとピアノの作品が含まれている。
「室内楽作品は、かつての女性音楽家たちが自身の声を得ることができた手段だったのです」とマルミは言う。女性の音楽家と女性作曲家の作品は、一般的にオーケストラ作品には相応しくないと考えられていた。女性を公共の音楽創作の場から排除しようとする傾向は、20世紀まで続いた。音楽への探求に女性が参加することを阻止する法律や規則だけが唯一の障害なのではない。それらを軽視する態度や社会的排除が実に大きな効力を持っていた。
しかし、それにもかかわらず、モーベリやレイヴィスカ、ベッツィ・ホルムベリ(1860-1900)といった、マスコミが天才として歓迎したような一部の女性は、オーケストラ音楽や舞台音楽を含むかなりの量の音楽を作曲することができた。その他の者は、教育的なものや楽器の入門書、共同体の歌や子供たちのための音楽に焦点を当てた。こうした作曲家の例として、フィンランドの音楽教育の先駆者であるヘンリエッテ・ニューベリ(1830-1911)や、リリ・トゥーネベリ(1836-1922)、ソフィ・リテニウス(1846-1926)らがおり、彼らの歌のいくつかは今日においてもフィンランドの学校で歌われている。前述のマンセンやチェチュリンなどのように、楽器の名手でもある作曲家というのも19世紀においては典型的であった。チェロとピアノのための《エレジー》で知られるエディス・ソールストレム(1870-1934)や、ルッル・ウォルトステット=バッチ(1883-1965)のように、幾人かは作曲家でありながら作家でもあった。
ベッツィ・ホルムベリは、コペンハーゲンとライプツィヒで学んだ。生涯の大半をノルウェーで過ごした彼女は、フィンランドの広報誌によると「音楽の天才」だったという。
彼女の残した作品には交響曲(1884年作曲)がある。写真の《前奏曲とフーガ》は、彼女のピアノ作品の中でも最も頻繁に演奏されているものである。
コスモポリタンの響き
マルミは自身のプロジェクトをこう述べている。「それは非常に大きな経験であり、途方もない音楽を、女性作曲家の人生を、境界線を打ち破っていった音楽家たちを発見する旅でした。私はいつも素晴らしい作品を見つけており、なぜ誰もそれらを演奏しないのだろうと不思議に思います。だから私はそれらを自分で演奏することにしました。」
マルミは作曲家と作品のリストを口早に言う。「こうした女性たちはこのように素晴らしい作品を書いています。1世紀以上も前に彼らが過ごした人生がどのようなものだったか、考えてもみてください。彼らが世界に出て、社会の慣習と戦い、彼らの強い衝動を達成するために苦しみもがくことが、どれほどの勇気がいるものだったか。それは私の仕事にインスピレーションを与えてくれます。」
「例えばレイヴィスカの音楽などは非常に表現に富んでいます」とマルミは熱を込めて言う。我々はそれがフィンランドの民族的様式よりも、国際的な表現主義や印象主義に類する様式を持っていることに注目している。マルミは言う。「作曲家としての女性は疎外されていたはずで、これは彼女たちに民族的な制約や美学的なドグマから解放させる効果があったとも言えるでしょう。フィンランドの女性作曲家は多くの場合、同時代の多くの男性の同業者よりも様式的に力が抜けており、コスモポリタンです。」
あるいは別の言い方をすれば、女性の作曲家は公的な音楽のサークルに受け入れられなかったため、「フィンランド的な」音楽を書いて国の機関を支持する義務を感じていなかった。さらに、フィンランドには女性の音楽家を繋ぐネットワークが持っていなかった。これは女性は自分自身の音楽を作り出し、男性の確立した音楽を眼中に置かなかったという主要なヨーロッパの諸都市におけるケースと同様である。結果的に、多くのフィンランドの女性作曲家は海外に―ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ロンドン、サンクトペテルブルクに―旅をして、その地で長期にわたり滞在し、場合によってはそのまま帰ることはなかった。
「これらの女性の多くは、当時はよく知られた作曲家・音楽家でしたが、その後彼らの成果は忘れられ、不当に疎外されています。作曲家がいなくなってしまえば、こうした作品を社会に残そうとする人はいなかったのかもしれません」とマルミは考える。
「このコンサートシリーズに対する聴衆の反応はたいへん熱狂的です。多くの人が、なぜこれらの作曲家やこうした作品を全く聴いたことがなかったのかと不思議がっています。」聴衆や同僚はマルミにこれを継続してほしいといっている。「これがどこに繋がっていくのか楽しみです。ヴァイオリニストとしての私のレパートリーは大きく変わりました」とマルミは嬉しそうに語る。私たちは、女性作曲家の音楽を演奏だけでなく、録音や印刷でも広めることができるのではないかと話している。
住み分けから標準へ
「女性の作曲家に焦点を当てた全てのプロジェクトは、我々が持っている、男性のみの領域としてのクラシック音楽の歴史という歪んだイメージを修正することに貢献しています」とマルミは語る。「最近になり状況は変わってきており、女性による作品がコンサートのプログラムに上ることは、ようやく普通のこととなってきています。#metooのムーブメントから、2016年に設立したココナイネン音楽祭では女性の音楽に焦点を当てていたり、私たちの音楽祭 Meidan Festivaaliでは女性をテーマにしたイベントが開かれたり(2015年と2017年)と、社会全体で多くのこと起こっています。小さな水の流れが洪水を作っているのです。」
国際的な「キーチェンジ・プロジェクト」に参加しているフェスティバルは、2022年までに出演者の数を男性と女性を同数にすることを企画している(政治的な理由により、トランスジェンダーやその他の性別は女性と一緒にカウントされている)。フィンランドにおいては、ミュージック・フィンランドが2018年に、音楽ビジネスにおける男女の平等性や多様性、非差別を促進する一連の論文を纏め、出版した。これらの論文には、フィンランド交響楽団協会やフィンランド作曲家協会を含む100以上の組織や企業の署名がなされている。
女性による作曲作品は、今日におけるコンサートの文化、音楽教育、音楽生活全般の自然な要素であるはずである。歴史的な女性作曲家の生活を探求することは、彼らの社会的地位が不利であるために、特に目を見張るもので、示唆に富んだものである。
女性作曲家の作品の復権を行うことは、フィンランドのクラシック音楽の基準を作り変え、コンサートのプログラムを活性化させ、音楽教育に熱意を与えることとなる。それは我々自身、我々の過去、そして我々の考え方を変える。そしてそれは幅広いアーティストを紹介し、コミュニティを構築し、より男女平等な世界の実現に貢献するのである。
ミルカ・マルミ、インタビュアー:スザンナ・ヴァリマキ
スザンナ・ヴァリマキとヌップ・コイヴィストによるFMQの連載記事「フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典」は、『音楽の娘たち:18世紀後半から20世紀初頭までのフィンランドの女性作曲家たち』(原題:Sävelten tyttäret: Säveltvät naiset Suomen historiassa 1700-luvun lopulta 1900-luvun alkuun)という二人の著書出版プロジェクトから派生したものである。
ヴァイオリニストのミルカ・マルミは、ピアニストのティーナ・カラコルピと定期的に演奏を行っている。
彼女も女性の音楽を推進する活動家の一人である。写真:ヴィッレ・パウル・パーシマー
(邦訳:小川至)
+++++++
こちらの記事は、著者のスザンナ・ヴァリマキ、ヌップ・コイヴィスト=カーシク両女史に許可を頂いた上、翻訳・掲載しております。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。
“A celebration of historical Finnish women who wrote music, Part 1: Activists strive for gender equality”
https://fmq.fi/articles/activists-strive-for-gender-equality
また、FMQによる同連載記事のその他の邦訳は、全て同訳者の邦訳によりweb上にて閲覧可能です。
https://note.com/itaruogawa
プロフィール:
小川至
武蔵音楽大学大学院修了後、
チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院留学。
ロシア留学中にフィンランド音楽と出会う。
帰国後はピアニスト・執筆家として活動。
日本・フィンランド新音楽協会会員