フィンランドの音楽をめぐる思い

柴辻 純子

ずっと昔のこと。それまでヨーロッパへの旅は、アラスカのアンカレジ経由でたっぷり時間をかけていたが、やがてロシア上空も飛べるように飛行ルートが変更になり、あるときパリから帰国する際、気象条件の悪化でヘルシンキの空港に急遽立ち寄ることになった。予定外のフィンランドは、機外に出ることはできなかったが、飛行機が降下するとき小さな窓から眺めた風景がいまだに忘れられない。空に突き刺さるようにまっすぐのびた針葉樹の木々といくつもの小さな湖。森と湖の国と言われるフィンランドの、その光景がいまも目に焼き付いている。季節は夏の終わり、薄い日の光が射し、なんとも言えない静かな時間が流れていた。

フィンランドは小国でありながら、音楽家を多数輩出し、作曲家も演奏家も指揮者も世界で広く活躍している。日本でもエサ=ペッカ・サロネンが指揮する公演のチケットは瞬く間に売れてしまい、カイヤ・サーリアホがコンポージアムのテーマ作曲家として招聘され、サントリーホールで彼女の作品が特集されて話題を集める。彼らたちに共通しているのは世界的な音楽家であるにもかかわらず、近寄りがたいオーラを放つわけでも、気難しい巨匠という雰囲気を漂わせるわけでもない。むしろ素朴で、はにかむような振る舞いが印象的である。音楽も同様で、緻密で周到で作られているが、抵抗なく耳にすっと入ってきて、自然に肌になじむ感覚だ。フィンランドの音楽家の特徴である、この独特のしなやかさや穏やかさはどのように育まれたのだろうか。

昨年、一柳慧先生とフィンランド音楽に関する仕事をふたつ御一緒させていただいた。ひとつは、NHKのFM番組。ここ数年、ヨーロッパの夏の音楽祭を特集して紹介する番組の進行役を務めているが、フィンランドで2番目に古い都市ポルヴォーで毎年行われる「アヴァンティ・サマーサウンズ」を取り上げるにあたり、2010年に音楽祭のテーマ音楽家として招待された一柳先生をゲストにお招きして、ともにオープニングコンサート(2016年6月30日)の模様を聴いた。この日は、イェルク・ヴィトマンのグラスハーモニカを用いた協奏曲など内容は刺激的だったが、やはり目を(耳を)引くのは、演奏するアヴァンティ室内管弦楽団の水準の高さである。フィンランドの音楽教育システムは定評があるが、弦楽器の精緻なアンサンブルはもちろん、息をコントロールする木管楽器が抜群にうまい。そして伝わってくる観客の熱い視線と熱気。中央ヨーロッパではどうしてもクラシックはエリートの世界のもので近寄りがたい雰囲気が少なからずあるが、ここではそうした境界線を引くことなく、互いに楽しむ術を心得ていると感じた。

音楽家も伝統に縛られることがない。昨年秋に行われた神奈川県芸術財団の主催のシンポジウムで、チェロ奏者のセッポ・キネマン、若手作曲家のペルットゥ・ポロネン両氏を迎え、日本からは一柳先生と作曲家の川島素晴さんが登壇し、その進行役を務めさせていただいた。まずは、20代から80代まで幅広い世代のメンバーが音楽家としてひとつのテーブルで話が噛み合うという凄さ!示唆に富む様々な意見が交わされたが、キネマン氏の自国には「伝統の重みがない」ゆえに新しい音楽への興味や敬意が生まれるという発言は興味深かった。キネマン氏はこれまで現代曲の新作初演を70曲以上行っているが、彼の視線はフラットで、リサイタルでは現代曲を古典曲の間に挟み込むことでその音楽を引き立てた。一方、ポロネン氏は、PCソフトも積極的に活用する世代だが、どこかに手仕事の感覚を残している。彼が発明した「ミュージック・クロック」というスマートフォンのアプリも、アナログ的な発想で作られているのが面白かった。時代や世代など無意識のうちに引いてしまう境界線も、彼らのもとでは存在しないようだ。

そして昨年末、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でサーリアホのオペラ「遥かなる愛」が新演出で上演された。メトの長い歴史のなかで女性作曲家のオペラが単独で上演されるのは初めてとのこと。いまや男性と女性を区別することは意味をもたないが、これも伝統の重みから解放されているフィンランドの作曲家にとっては、声高に語るまでもなく、自然の流れに違いない。

先のシンポジウムで、フィンランド人は「情熱は奥深くに秘めている」と語ったのは、ポロネン氏だった。鋼がしなやかで強靭であるように、穏やかさのなかにあるのは静かで揺るぎない情熱なのかもしれない。そして彼の言葉でふと、あの窓から見た風景を思い出した。

プロフィール
柴辻 純子 / Junko SHIBATSUJI
東京生まれ。桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学研究科、および慶應義塾大学大学院修士課程修了(音楽学専攻)。
主な研究領域は、新ウィーン楽派を中心とする20世紀音楽。NHK-FMに司会、解説で出演するほか、音楽専門誌等に寄稿。
著書に、『オックスフォード・オペラ大事典』(共訳、平凡社)、『クラシック作曲家事典』(共著、学研パブリッシング)などがある。