⼀柳慧追悼コンサート―CosmicHarmonyHommageàToshiIchiyanagi― を振り返って
小川至
2022年10月7日、日本を代表する作曲家であり、当協会の創設者である一柳慧が亡くなった。 2010年の発足から12年間、当協会を率いた一柳氏の呼びかけにより、国境や年代、文化的差異というボーダーを超えた多くの演奏の機会や活動が行われてきたが、2023年10月30日にトーキョーコンサーツ・ラボで開催された一柳慧追悼コンサート 「-Cosmic Harmony Hommage à Toshi Ichiyanagi-」は、まさにそうし
た一柳慧の意志と、後世を生きる者たちからの強い信頼を強く感じさせる演奏会であった。プログラムは以下の通り。
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一柳 慧(1933-2022):《独奏チェロのための「プレリュード」》(2012)
堤 剛(チェロ)
エイノユハニ・ラウタヴァーラ (1928-2016):ピアノソナタ第2番 《火の説法》(1970)
福士 恭子(ピアノ)
一柳 慧:《デュオ》 三味線とヴィオラのための(2018)
本條 秀慈郎(三味線)、甲斐 史子(ヴィオラ)
池辺 晋一郎(1943- ):《ストラータVIII》ヴァイオリンとチェロのために(2010)
印田 千裕(ヴァイオリン)、印田 陽介(チェロ)
ユハ・T・コスキネン(1972- ):《柳宿》 ピアノのための(2023)(世界初演)
小川 至(ピアノ)
野平 一郎(1953- ):《Si-Mi》 クラリネットとピアノのための(2016)
野田 祐介(クラリネット)、飯野 明日香(ピアノ)
一柳 慧:《ピアノメディア》(1972)
飯野 明日香(ピアノ)
一柳 慧:《コズミック・ハーモニー》チェロとピアノのための (1995)
堤 剛(チェロ)、飯野 明日香(ピアノ)
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プログラムの序文には、チェリストであり一柳氏の盟友であるセッポ・キマネン氏の親密な文章が寄せられていた。「彼は東洋と西洋、あるいは最古のものと最新のものとの間に横たわる境界線を消すことができた」とする一柳氏の姿は、まさに本プログラムを鋭く言い当てたもののように感じられた。それは並べられた作品のみならず、世代を超えた演奏家や作曲家たちの姿からも見て取れるだろう。多様な姿を
持つそれらを繋ぎとめるものは、一柳慧という一人の人間への想いだったように思う。
コンサートの開始を告げるのは、長きに渡り一柳氏と強い信頼関係にあったチェリスト、堤剛氏の独奏である。《独奏チェロのための「プレリュード」》は、70歳を迎えた堤氏を祝うコンサートのために2012年に書き下ろされた作品であり、一柳氏自身もこの頃にはすでに79歳の歳を重ねていた。静と動を鋭く抉り出したような本作は、堤氏の祈りとも思えるような凝縮した演奏により、新たな命を得たかのようであった。「音楽の将来を展望する出発点となれば」との思いから作曲されたという本作は、年齢という条件を感じさせないほどのポジティヴな姿勢で満ちていたように感じられた。
エイノユハニ・ラウタヴァーラ(1928-2016)は戦後から現代にかけてのフィンランド音楽界を代表する作曲家のひとりだが、実は一柳氏とも深い親交を持っている。彼がまだ学生であった1955年の頃にジュリアード音楽院で一柳慧氏と出会っており、その友情と敬意はその生涯を終えるまで変わることがなかった。2010年の本協会発足の際にもラウタヴァーラは祝辞のメッセージを送ってくれたという。1970年に作曲されたラウタヴァーラのピアノソナタ第2番《火の説法》は、概して緩一急一級の全3楽章からなる作品だが、そのどれもに巨匠的な走駆やクラスターといった巨大な音響に彩られている。全楽章を通して壮大なビジョンを連想させる本作だが、福士恭子氏の演奏はそうした特性を十分に感じさせる鬼気迫るものであった。
作曲の分野において様々な側面を持つ一柳氏であったが、「邦楽器による音楽」もそのひとつであった。とりわけ晩年に集中したのが三味線を含む作品であり、その背景には三味線奏者、本條秀慈郎氏の存在があったといえるだろう。三味線とヴィオラのための 《デュオ》は本條氏がヴィオラと三味線のための二重奏曲を、と直接一柳氏へ委嘱を行った作品である。和と洋、弾く音と擦る音といった様々な相違点を持つ両楽器の性質が、「これ以外にない」と思えるほどの響きを生み出すのには驚かされた。委嘱者である本條氏の三味線と甲斐史子氏のヴィオラは作品の本質を深くとらえた説得力のある音楽を奏でていた。
池辺晋一郎氏のヴァイオリンとチェロのための《ストラータVIII》は2010年、本協会が発足した同年に作曲された。「初演を耳にした一柳先生は本作品をとても気に入ってくれて、その後すぐにフィンランド大使館でのコンサートのプログラムに組み入れてくれた」とされる本作は、まさに一柳氏との思い出の作品と言えるだろう。過剰にシリアスな空気をむ現代音楽に対し異を唱えた池辺氏は、本作において駆け抜けるような急速なテンポ、ジャズに見られるような「即興」を用いたカデンツァを用いることでそれに応えている。印田千裕氏と印田陽介氏の二重奏は極めて高い精度のアンサンブルと、音楽の根幹を成す「喜び」を感じさせてくれる爽快な演奏を聴かせてくれた。
本演奏会において、最も若い世代の作曲家と言えるのがユハ・T・コスキネン氏である。51歳を迎えた彼にとって(野平一郎氏は70歳、池辺晋一郎氏は80歳)。40歳近く離れた一柳氏の存在は、一時代を築いた「偉大な作曲家」としてその目に映っていた。本演奏会のために委嘱された、ピアノのための《柳宿(ぬりこぼし)》は、そんな一柳氏の姿を星に投影した作品である。しかしその音楽は壮麗に描かれた大規模なものではなく、むしろ極めて音をそぎ落として作られた、簡素ともいえるものであった。それはコスキネン氏が一柳氏に対し、その外面的なキャリアの華麗さではなく、内面的な精神性に目を向けていたことの現れのようにも感じた。私(小川至)は光栄にも初演を務めさせていただいたが、その響きはピアノという楽器を超えて、遥か彼方からの自然の現象に耳を傾けるような思いであった。
野平一郎氏のクラリネットとピアノのための 《Si-Mi》は、野平氏の師であるアンリエット・ピュイグ=ロジェ氏の追悼コンサートのために2016年に書かれた作品である。その独特なタイトルの意味するところは、師のアンリエットの最初の二文字 (HとE)に由来しているという。その音楽はクラリネットの様々な特殊奏法と共に、ピアノのソステヌート・ペダルによる共鳴によって、常に幻想的な空間の創出を
求めているが、野田祐介氏のクラリネットと飯野明日香氏のピアノは、そうした多彩な音響と広いダイナミクスの幅を見事に表現する素晴らしいものであった。「過ぎ去った過去とともに」と記された厳粛な終結部では、まるで会場全体が祈りに満ちたような「追悼」の名に相応しい空気が会場を包み込んでいた。
70年代における一柳氏のターニング・ポイントとして、また彼のピアノ音楽においても重要な位 置を占める作品の一つとして、《ピアノメディア》は特別な作品のひとつと言えるだろう。自らも卓越したピアニストであった一柳氏が、テクノロジーの進化により「手作業」としてのピアノ演奏が消えゆくことへの危機感から作曲されたという本作は、人間が機械的な音響を模倣することが求められるが、それは言い換えればそれは人間とテクノロジーの境界をも超える一柳の試みのひとつ、と捉えることができるのだろう。結果として人間の限界に迫る技術を要求されることになるが、一柳氏と共に演奏・録音も行った経験を持つ飯野明日香氏のピアノは息を呑むほどの迫力と突き進むようなドライブ感で、聴くものの心を震わせてくれた。
コンサートの最後を飾るのは、一柳慧によるチェロとピアノのための《コズミック・ハーモニー》である。1995年に作曲された本作は、当夜の演奏も務める堤剛氏によって初演された。その後も幾度となく堤氏によって演奏・録音共に取り上げられている。プログラムにもある通り、本作は堤氏と一柳氏との間で様々なアドバイスや意見交換があったとのことで、両者を繋ぐ特別な作品と言えるのだろう。その名が示す通り、無限に広がる宇宙の果てから響くかのような音響が、チェロの旋律とともに会場を満たしていた。ピアノは3曲連続して飯野明日香氏が務めたが、両者の演奏はそうしたスケールの大きさをしっかりと感じさせてくれる、コンサートを締めくくるに相応しい演奏のように感じた。
コンサートの間には、池辺氏、野平氏、セッポ・キマネン氏、新井淑子氏が登壇したトークが挟み込まれ、それぞれが思う「わたしの一柳慧」を語る時間が設けられた。皆々が語るエピソードのひとつひとつからは、「日本を代表する大作曲家」というステレオタイプではなく、一人の愛すべき人間の姿が浮かぶようであった。私個人の話で恐縮ながら、私も一柳先生を思い出すときは「作曲家」という姿を超えて、彼の生きた姿勢や、その時々にかけて下さったことばを通して、人間としての先生の温かさを想わずにはおれない。ご来場いただいた皆様も、きっと同じ思いであっただろうと信じている。満席のお客様に包まれた本コンサートは、まさに一柳慧が残したものによって実現した、奇跡的な時間だったと思う。
平日にも関わらず足を運んでくださった皆様、長きに渡り手厚いサポートをしてくださった東京コンサーツのスタッフの皆様、様々なご依頼に快く応じてくださった作曲家・出演者の皆様、そして何よりもこの繋がりを生み出してくれた一柳慧先生に、心からの敬意と感謝を申し上げます。
小川至 (ピアニスト)
1984年生まれ、長野県出身。武蔵野音楽大学大学院修了後、チャイコ
フスキー記念国立モスクワ音楽院留学。ロシア留学中にフィンランド
音楽と出会う。帰国後は後進の指導に当たりながら、ピアニスト・執
筆業と各方面に活躍。フィンランド人や日本人の作曲家と協働しなが
ら両国の音楽文化の繋がりを深めることをライフワークとしている。