フィンランド音楽の歴史から見る現在

小川 至

私とフィンランド音楽の世界との最初の出会いは、今から5年ほど前のことになる。当時ロシアに留学していた私は、ふとしたきっかけによって、同国の作曲家レーヴィ・マデトヤの《昔の思い出》と題された小さなピアノ作品に触れたことが全ての始まりであった。そこに響く音楽は、ロシアで学んでいたムソルグスキーやラフマニノフなどの音楽に聴かれるような、荘厳で巨大な世界観とは大きく異なったものであり、まるで無邪気とも無防備とも言えるような人間の魂の無垢な純真さ、ひいては名もない草花の語る言葉のようなささやかな温もりのようなものが簡素に綴られているのだ。

当時の私にとって、「フィンランド音楽」というある種漠然とした言葉の中に連想するものといえば、せいぜいシベリウスの名前くらいであった。しかし、この未知なる北国の音楽について無我夢中で調べていくうちに、今や音楽を愛する誰もが知る巨匠シベリウス像の影に隠れていた数多くの作曲家たちと、彼らによって連綿と発展し、育まれた驚くほど豊かな音楽遺産が無数に横たわっていることを知ったのだ。また、「聴衆不在」とも言われる現代音楽の現状において、フィンランドでは現代音楽がコンサートのプログラムに含まれることは珍しいことではないようであり、現地の聴衆たちはそうした新たな音楽を日常的に楽しんでいるという。そのようなことを知る中で、私は、古くから現代に至るまでの脈々たるフィンランド音楽の歴史と多様な様式における性質や、その特殊な創造性や精神性の中に暮らす人々の音楽的営みについて探求したいという願いを強く持ち始めたのだ。

ところで、フィンランドがロシア帝国から独立を勝ち得たのは1917年の12月のことであり、さらに1809年以前はスウェーデン王国の一部であったことは周知の通りである。スウェーデン時代は勿論のこと、ロシア帝国の西端の領地となった時代においても、フィンランド人たちの内に国民意識が本格に燃え上がるまでには長い時間を待たねばならなかった。フィンランド音楽史においては、それ以前に創造的開花が見られ、フィンランドで最初の作曲家と目されるエーリク・トゥリンドベリ(1761-1814)やカール・ルドヴィグ・リタンデル(1773-1843)、トーマス・ビューストレム(1772-1839)といった作曲家たちが創作活動を展開していたが、それらは基本的にウィーン古典派の様式を踏襲した音楽であり、その多くが古典様式的均整を有した佳作といった印象を脱していない。フィンランド国内における演奏家たちの出現とその活動も徐々に興隆してはいたものの、1850年代に入ってからもなお、演目の主要レパートリーは西欧音楽によって占められており、殊にドイツ的思想からの影響が濃厚であったようだ。

一方で、ナショナリズムの動きは19世紀前半に、主にヘルシンキ大学の関係者を中心とした文化人たちによって生みだされた。彼らが目する「ナショナリズム」とは主に言語の領域へと向けられており、スウェーデン語が国の公用言語として用いられていた当時のフィンランドにおいて、彼ら独自の言語たるフィンランド語の価値を再考し、スウェーデン語と同等、もしくはそれ以上の価値に引き上げようというものであった。1935年にはエリアス・ロンルートがフィンランド語による叙事詩『カレワラ』の初版を編纂し出版するなど、その後の国民的意識の高揚を大きく促す功績を果たしたが、未だ社会一般に浸透していなかったフィンランド語による文学的啓蒙運動は、大学の外にまで大きな影響を及ぼすような成果は至らなかったようだ。

1855年にアレクサンドル2世がロシア皇帝に即位し、改革を重んじる彼の姿勢が結果としてフィンランド国内に芽生え始めていたナショナリズムの動きを一気に後押しする形となった。1863年に、それまでフィンランド語を公用していた農民階級を鼓舞し、啓蒙活動を続けていたヴィルヘルム・スネルマンが大臣に任命された後に発令された「言語令」(20年後にはフィンランド語もスウェーデン語と同等の扱いを受けるという発令)によって、国民主義的文学に対する創意は一気に白熱することとなった。新たなロシア皇帝の影響は、フィリップ・フォン・シャンツ(1835-1865)によって作曲された管弦楽曲《クッレルヴォ序曲》(1860)に見て取ることができる。この作品は、フィンランドで初めて『カレワラ』の内容を題材とした音楽と目されているが、その様式的特徴はやはりドイツ・ロマン派の音楽様式の模倣の域を脱していない。

1860年代になると、宗主国であるロシアにも音楽院が設立されるが、フィンランドの作曲家たちのほとんどは明らかに西欧の音楽思想を規範としていた。 特に、ドイツのライプツィヒはこの頃の西欧文化を牽引する代表的都市の一つと目されており、ライプツィヒ音楽院に向かったフィンランド人作曲家たちは「ライプツィヒ楽派」と総称される。また、奇しくもこの時期(1901~02年の間)には日本の滝廉太郎が同校で学んでいる。
1882年にはマルティン・ウェゲリウス(18491909)の尽力によってヘルシンキ音楽学校(1939年にシベリウス音楽院」に改称)が開設され、同年にはロベルト・カヤヌス(1856-1933)の手によりヘルシンキ・オーケストラ協会が設立されるなど、フィンランド国内における音楽活動はさらに勢いを増していった。この時期の最初期の音楽教師陣は、その多くがやはりドイツ人を中心とした西欧の音楽家たちによって占められた。フィンランドを訪れ、同国の音楽的発展に最も大きな影響を残した人物の一人には、1888年から2年間に渡って教鞭を執ったフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)がいる。

1892年、当時26歳であったジャン・シベリウス(1865-1957)がカレワラを題材とした《クッレルヴォ交響曲》を発表したことにより、フィンランド国民は遂に真の音楽的独自性を手に入れた。それまでにも、フォン・シャンツによる管弦楽のための序曲を始め、カヤヌスの《クッレルヴォの葬送行進曲》(1880)、《アイノ》(1885)などといった、カレワラに基づいた作品が生み出されてはいたものの、様式の上では西欧的思想を基盤としていた。しかし、シベリウスは西欧的語法に依ることのない、全くもって独自の音楽言語を見出し、真の「フィンランド音楽」を確立することに成功したのである。

Leevi Madetoja

この世紀の変わり目は、まさにフィンランド音楽の黄金時代の到来であると言える。全てのフィンランド人の音楽的代弁者であるシベリウスを筆頭としつつ、大衆的音楽の領域においてはオスカル・メリカント(1868-1924)が一世を風靡し、レーヴィ・マデトヤ(1887-1947)がシベリウスの成し得なかった国民オペラの領域を切り開いた。その他にもトイヴォ・クーラ(1883-1918)やセリム・パルムグレン(1887- 1951)、エルッキ・メラルティン(1875-1937)、イルマリ・ハンニカイネン(1892-1955)等、綺羅星の如き作曲家たちがその全盛を極めたのもこの時期のことであった。

1896年、それまでのフィンランドの改革路線に鷹揚であったロシア皇帝アレクサンドル2世が退位し、ニコライ2世が即位したことによって情勢は一変した。彼はドイツの国力強化を恐れ、領地に住む者たちをロシアの名のもとに団結させるべく動き出したのだ。その波は1899年にフィンランドにも到達し、第1次ロシア化政策が施行される。これにより、フィンランドの法律制定および内政決定権はロシアの手に渡り、ロシア語の習得が強制させられたのだ。これを受け、フィンランド人のナショナリズムの高まりは独立思想とも相まって必死の様相を呈することとなる。この抵抗の中、芸術家たちは自国の民族的文化を作品として形作り、その尊さを主張することに自らの存在意義を見出した。1899年に書かれたシベリウスの代名詞的作品《フィンランディア》が国民に与えた精神的影響がいかに巨大なものであったかということは、もはや言うまでもないだろう。

1905年の日露戦争によってロシアが敗北を喫すると、それまでの厳しい圧政は一時緩和されるが、1908年には列強の進出とともに第2次ロシア化政策が始まった。これはかつての政策よりも更に内容の厳しいものだった。やがて1914年に勃発した第1次世界大戦にロシアが巻き込まれたことによってフィンランドも戦闘状態へと突入したが、1917年のロシア革命の波に乗じてようやく独立を果たしたのである。

独立後のフィンランドは凄惨な内戦も経験することとなったが、反革命派である白衛軍の勝利によって鎮静下されると、フィンランド人たちはロシア時代の記憶を引きずることはなく、ロシア語も瞬く間に忘れ去られていった。その後、国外への関心はパリへと向けられていったが、それと同時に多くの人々が「真のフィンランド人の魂は農民の堅実な生活の中にある」という信念を抱いていたことは極めて興味深い。戦間期にあたる1920年代はアメリカも含め、多くの国が戦後のにわか景気による狂騒の中にあり、街中ではジャズが響き渡り、クラシック音楽の領域おいてもストラヴィンスキーを筆頭とする先鋭的モダニズムが世界中を席巻する中で、フィンランドは比較的保守的な反応を維持していた。アーッレ・メリカント(189-1958)やエルンスト・パングー(1887-1942)、ヴァイノ・ライティオ(1891-1945)らのような海外諸国の急進的な思想から影響を受けたモダニスト達も現れたが、時代の主流はシベリウスを源流とする国民色豊かなロマン主義音楽であり続けた。1920年代末にはモダニスト達の勢いも時の冷淡さの中に薄れ、1930年代にはほとんどがその急進性を失ってしまった。モダニストの名の元に旺盛な活動を続けることができた数少ない作曲家としては、国民的主題とモダニズム様式との融合によって独自の語法を開拓したウーノ・クラミ(1900-1961)を挙げることができる。

Aino-Triptych, Akseli Gallen-Kallela 1891

1920年代に勃興したモダニストたちの挫折に対する、シベリウスに端を発する伝統主義への保守的反動は戦後まで続いた。1939年の第2次世界大戦勃発から1944年の終結までの間、当然ながら国内の音楽活動は停滞した。同時にシベリウスはその創作活動を完全に停止してしまい、メラルティンは1937年に、マデトヤは1947年、そしてパルムグレンも1951年に相次いでこの世を去った。

戦争の傷跡を残すフィンランド音楽文化の土壌に新たな風を運んだのはエイナル・エングルンド(1919-1999)であり、1947年に初演された彼の交響曲第1番《戦争》であった。ヨーナス・コッコネンは「コンサートの後、我々はみなエングルンド派になった」と語ったほどに、その作品が聴衆に与えた衝撃は大きなものであった。戦争によって疲弊した国民の心を代弁するのは、もはやかつての理想であった国民的ロマン主義の音楽ではなく、全く新しい新古典主義の響きを持った力強い音楽であった。

いよいよ活気を取り戻したフィンランドは、音楽界においても目覚ましい発展を見せた。1945年にはフィンランド作曲家協会が、1949年には若い世代の作曲家たちによる現代音楽協会が設立され、国内外の著名な作曲家や演奏家たちを招くなどの活発な活動が展開された。1951年以降にはシベリウス・ウィークと銘打たれた音楽祭が計画され、毎年、国内外の最も有名な演奏家たちが招かれる重要なイベントとなった。1968年以降、この音楽祭はシベリウス・フェスティバルと改称され、今日に至るまで伝統的行事として続けられている。1963年にはフィンランド音楽を広範囲かつ多角的に発信させることを目的とした機関としてフィンランド音楽情報センターが設立され、フィンランド出身の作曲家たちの作品目録や出版情報、ディスコグラフィ、活動状況などの情報を詳細にわたり提供しており、今日においても活発な運営がなされている(現在はMusic Finlandに改称)。フィンランドを代表する国立音楽教育機関であるシベリウス・アカデミーも、今や世界に名だたる音楽家を多数輩出する名門校として知られ、同校の卒業生の中には、作曲家のエーリク・ベリマンやパーヴォ・ヘイニネン、カレヴィ・アホ、アウリス・サッリネン、マグヌス・リンドベリなどがおり、演奏家としてはエサ=ペッカ・サロネンやレイフ・セゲルスタム、オッリ・ムストネンやカリタ・マッティラなどといった、世界の第一線で活躍する音楽家たちの名前が多く見られる。こうした優れた活動の一つ一つによって、現代的かつ独創的なヴィジョンを反映する創作の現場と、それらが高水準の芸術的完成度において再現される演奏の現場とが豊かに関わり合いながら、今日に至るフィンランド音楽像を形作っているのである。

フィンランドという国が確立されてからの歴史はまだ浅い。同様に、その民族的アイデンティティー、すなわち「フィンランドらしさ」たるものを形成してきた時間も僅か100年余りである。しかしそうであるからこそ、彼らがナショナリズムに目覚めた時、「古きを知り、新しきを知る」ことに自身とは何か、民族とは何かという問いを深めていったのだろう。今も変わらず彼らが精神的支柱としている『カレワラ』も、ロンルートが地方で語られていた古き民話を蒐集し、新たに一つの叙事詩として纏めあげたものであった。文学家たちは古くから伝えられるフィンランド語を用いて新たな文学作品を創造し、作曲家たちはさらに古くから響く魂の言語を聴き取りながら音楽作品を紡ぎあげていった。そこにこそ、フィンランド人の普遍的思想が垣間見える。

フィンランドの音楽は今日も新たな創造的流れの中に育まれている。そして今日も、多く作曲家たちが作品を生み出し、多くの演奏家たちがその作品に息吹を与えている。聴き手はその新しさの中に、「私たちのフィンランド」を見つめ、自らの魂に耳を傾けているのだろう。

参考文献
フットゥネン,M(2000)『シベリウス―写真でたどる生涯』(菅野浩和訳)音楽之友社
カービー,D(2008)『フィンランドの歴史』(百瀬宏・石野裕子・東眞理子・小林洋子・西川美樹訳)世界歴史叢書
リンタ=アホ,H・ニエミ,M・シルタラ=ケイナネン,P・レヒトネン,O(2011)『世界史のなかのフィンランドの歴史―フィンランド中学校近現代史教科書―』(百瀬宏訳)明石書店
アホ,K・ヤルカネン,P・サルメンハーラ,E・ヴィルタモ,K(1997)『フィンランドの音楽』(大倉純一郎訳)オタヴァ出版
Korhonen, K, Inventing Finnish Music: Contemporary Composers from Medieval to Modern, 2nd ed. Mäntyjärvi, Jaakko, trans.. Helsinki: Finnish Music Information Centre, 2007.
Korhonen, K, Finnish Piano Music. Timothy Binham, trans.. Helsinki: Finnish Music Information Centre, 1997.
Korhonen, K, Finnish Orchestral Music 2. Timothy Binham, trans.. Helsinki: Finnish Music Information Centre, 1995.

プロフィール Itaru OGAWA
武蔵野音楽大学器楽学科、同大学院修士課程修了。
チャイコフスキー記念モスクワ音楽院に留学。
2013年・2014年「フィンランド歌曲研究演奏会《フィンランドの森》」参加。
2014年6月、チェロとピアノによるフィンランド音楽演奏会「森の響き、湖の歌」を企画。
2014年8月、バリトン歌手の井上雅人氏と共に「フィンランドの風」、並びに同年12月にはフィンランドのピアノ作品を取り上げた演奏会「フィンランド光の旅」を開催するなど、フィンランド音楽の魅力を広めるための活動を展開中。
小川葉子、村上直行、山田彰一、峯村操、ジュリア・ガネヴァ、アンドレイ・ピーサレフの各氏に、伴奏法をヤン・ホラーク氏、ナターリヤ・バタショーヴァ氏に師事。
またマスタークラス等において、イシュトヴァン・ラントシュ、ヴィークトル・リャードフ両氏より指導を受ける。
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