講演「芸術家と時代-長谷川 利行のことなど」要旨

大塚 信一

 ”芸術家と時代”といえば、誰でも様々な例を思い描くことだろう。
例えば、本協会との関わりでは、作曲家のシベリウスがいる。彼は≪フィンランディア≫で当時ロシアの圧政から独立を求めて立上がるフィンランドの人々の熱い思いを描いた。

また有名な例として、画家のピカソは大壁画≪ゲルニカ≫で、フランコ軍の無差別爆撃を描き、スペイン内戦の悲劇を世界中に知らせたことがある。

現代における例として、私は本協会理事長の一柳慧をあげたい。”3・11”に遭遇した一柳は、その体験を深く省察し、その年のうちに≪交響曲第八番-リヴェレーション二〇一一≫を作曲した。それは日本古来の自然の美しさと、地震や津波そして原発事故の恐ろしさを描き、同時に死者に対する鎮魂の思いを込めて、私たちに深い感動を与えてくれた。さらに一柳は、現代社会が抱える諸問題に応えて≪交響曲第九番≫≪交響曲第一〇番≫をつくり、目下≪第十一番≫の作曲に専念している。

この他、作家、劇作家、演出家、映画監督、演奏家、役者、舞踏家、造形作家、建築家など無数の例をあげることができる。

このように”芸術家と時代”といえば、通常は偉大な芸術家が時代とどう向きあい、どのような創作活動を行ったか、が問われる。時の権力と正面から対峙する例もあれば、権力によって抑圧され、抹殺されてしまうことも多い。もちろん中には時代に迎合し、寄り添う場合もあるし、逆に時代に背を向け、極端な場合には狂人をよそおったりすることすらある。

ところで、戦前の昭和初期から一〇年代半ばにかけて活躍した一人の特異な画家がいた。長谷川利行である。彼は京都の淀で一八九一(明治二四)年に生まれ、一九四〇(昭和一五)年に東京で没している。一〇代から二〇代にかけて和歌に熱意を抱き、何冊か歌集を自費出版した。しかし一八歳の時に突然中学校(旧制)をやめてしまう。長谷川利行.jpg文筆で身を立てようと上京したもののうまくいかない。三二歳のときに関東大震災にあい、決定的な影響を受けた。その年のうちに京都に戻り、以降油絵の絵描きになる意志を固める。京都での二年間の沈潜を経て再び上京し、次第に二科展などに入選し、画家として認められ始めた。

とはいえ、利行の独特な線と色が強調された作品の評判が高くなり、若い世代から尊敬されるようになって以降も、彼が画壇に受入れられることはなかった。なぜなら、アトリエをも持たぬ利行が住んでいたのは簡易宿泊所や木賃宿であり、しかも当時は貧民街とも呼ばれた千住、三河島、日暮里、浅草などの下町が生涯の拠点であったからである。おまけに彼は自らの絵を友人・知人に三〇銭や一円という安い値段で売りつけ、その日その日の宿賃と安酒代を得ていたのだった。その結果、利行はその作品の無類の美しさにもかかわらず、アウトローとか野良犬と呼ばれ、それが”利行伝説”となっていく。事実、彼は前田夕暮や岸田国士といった有名人に対し傍若無人のふるまいをしたのだった。

二科の安井曽太郎をはじめとする幹部たちはアカデミズムの訓練のない利行を嫌った。しかし正宗得三郞や熊谷守一といった少数の眼識をもつ芸術家が利行の絵を高く評価し、入選させたのであった。

利行が活躍した時代は、明治維新一五〇年の前半期が太平洋戦争の敗戦によって破局を迎える直前の期間であった。維新政府は西欧は追いつくべく近代的な国家体制をつくり、それによって日清・日露戦争に勝利し、台湾、朝鮮を植民地化し、列強と並んで植民地争奪競争に参画した。国民はそれを熱狂的に支持した結果、軍部の力が増し、独走を始める。
満洲(中国東北部)にカイライ政権を樹立し、日中戦争への道をひらいた。東南アジアや太平洋諸島に進出した日本軍は、やがて米英を中心とする連合国の反抗を受け、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を経て、無条件降伏した。

つまり、利行が最も活発に絵を描いたのは、近代日本の歴史において最も暗い時代においてのことだった。そんな時代になぜあんなに明るく美しい絵を描くことができたのだろう。

利行はあの特異な時代に、下町の貧民街に近代化の過程からはじき飛ばされふき寄せられたその日暮らしの人々にまじって生活し、彼らの生活と彼らが生きる街を描いた。利行の天才は、このような特異な時代と場所にあって触発され、誰も描くことのできなかった明るく美しい絵を創造したのだった――まるでゴッホのように。そうした奇跡がなぜ可能になったのか、利行の生涯を追体験し、またA・アルトー、レヴィ=ストロース、柳田國男などの考えを援用しながら検討する。

(注記)この講演を基に、さらに利行のニーチェ理解なども加えて、近く作品社から『長谷川利行の絵-芸術家と時代』(仮)を上梓する予定である。



プロフィール

大塚 信一 Nobukazu OHTSUKA
国際基督教大学教養学部卒業後
1963年に岩波書店入社、「思想」編集部、岩波新書、
「岩波現代選書」などのシリーズ・講座・著作集を企画・編集
1984年刊行 季刊誌「へるめす」編集長
「文学部唯野教授」(筒井康隆)など多くの著作を送り出す
1990年・編集担当取締役
1996年・代表専務取締役(社長代行)
1997年ー2003年代表取締役社長を歴任