講演会「日本人作曲家達の樹形図」を終えて

徳山美奈子

2015年も終わりに近いクリスマス前 の12月22日、日比谷図書館にて上記講演をさせて頂きました。この寄稿はその内容に加筆をし、まとめたものです。

浜松国際ピアノコンクールの第二次予選で「日本人作曲家」による課題曲があります。この「日本人作曲家」という言葉、いつから、誰から?と、自ら日本人作曲家である私が知りたくなりました。そして先生の先生を辿って行くと誰になるのか?同じ幹から出た枝に連なる門下生の特徴は?等を一目で見渡せるように、クリスマスツリーのような樹形図に描いてみました。

「日本人作曲家という樹の育った土壌」
まず、この樹の育った土壌には、外来の音楽が日本に入って来た三つの要素が含まれています。一番深い所には奈良時代、仏教と共に伝わったアジア大陸の音楽、その上に戦国時代末期、ザビエル始め、イエズス会の宣教師が伝えたキリスト教音楽、その上には江戸末期にペリーが浦賀沖に来航した1853年、(ヨーロッパではリストがソナタh-mollを作曲した時期でした)、ペリーの軍楽隊による音楽です。(團伊玖磨著、「日本人と西洋音楽NHK放送大学」より)勿論、土壌のベースには日本人の血としての民謡や邦楽がありますが、系統だった西洋音楽の作曲教育は、明治から始まります。

「日本人作曲家第一号 伊沢修二」
そして明治元年、新しい時代の夜明け、日本人作曲家の樹は土から出てきます。(明治元年のヨーロッパでは、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演の年、因みに大正元年にはシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」作曲の年でした。歴史に残る音楽作品は、なんとその時代を象徴しているのでしょう!) その根元に位置するのは、明治政府初の音楽教育機関、「音楽取調掛」のトップを経て、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の初代校長となった伊沢修二。彼はアメリカの音楽教育家メーソンと共に外国の唱歌に日本語を当て「ちょうちょう」にし、自らも「紀元節」を作曲した第一号作曲家であり、日本人作曲家の樹の基盤を作った人です。

「唱歌の作曲家から器楽の作曲家へ」
明治の学制による唱歌教育の必要性から、唱歌の作曲家が数多く出ます。「夏は来ぬ」の小山作之助、「うさぎとかめ」の納所弁次郎、「故郷」の岡野貞一等です。そこに初めて器楽の作曲をした女性作曲家、幸田延が現れます。幸田露伴の妹でもある彼女はウィーン留学中にバイオリンをヨアヒムの弟子に師事します。ヨアヒムは、ブラームスのバイオリンコンチェルトの初演者ですから、幸田延の幹は太くブラームスの養分を吸い、そこから天才作曲家、滝廉太郎と言う花を咲かせます。彼女は日本人初の、バイオリンソナタBdurを作曲した音楽家でした。

「医学も音楽もドイツを目指せ」
森林太郎(森鴎外)は幸田延の1889年ボストン~ウィーン留学に先立つ1884年にライプチヒへ、翌年に北里柴三郎がベルリンへ。滝廉太郎は1901年にライプチヒ、その後ベルリンに山田耕作(ブルッフ門下)下総皖一(ヒンデミット門下)、諸井三郎等がドイツに学び、作曲理論はブラームスヒンデミット対位法として、厳格な書式が東京音楽学校で教えられます。幸田延と同じくヨアヒム門下のヴェルクマイスターは、東京音楽学校で教鞭をとり、門下には信時潔、中山晋平、松島彜が連なります。異色は橋本國彦。ウィーンで学んだ後、ロスアンジェルスでシェーンベルクに師事し、橋本門下は大中恩、吉田隆子、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎、矢代秋雄、高橋悠治等、沢山の才能が連なりました。

「信時、山田、下総、プリングスハイム時代」

東京音楽学校作曲部を創設した信時門下には先の下総、高田三郎、渡鏡子、大中恩、等がおり、山田からは團伊玖磨、清瀬保二。 この清瀬保二から武満徹に連なるのが興味深いのは、山田、清瀬、武満の関係は厳格な師弟と言うよりは、その人間に触れる事で何かを学んだ友人のような間柄が共通しているからです。下総門下には松本民之助、門下に坂本龍一がいます。ウィーンでマーラーに学んだプリングスハイムには、安倍幸明、平井康三郎が学びました。
東京帝大からドイツに行った先述の諸井にはやはり同窓の入野義朗、柴田南雄がおり、ここまでは日本人作曲家の樹はドイツ留学派が大半でした。異色はフランスに学んだ慶應出身の平尾貴四男に同じ慶應の冨田勲が師事しますが、慶應の湯浅譲二は中田一次に師事しながらもほぼ独学、北海道大学出身の伊福部昭も独学ながら、石井眞木、松村禎三と言うスケールの大きな作曲家が育ちました。

「フランス留学時代へ、池内友次郎と言う大きな幹」
これまでドイツ、オーストリア留学が殆どでしたが、フランスに向かった平尾貴四男の一歳上で、初めてパリ音楽院を正式に卒業した作曲家、池内友次郎が現れます。高浜虚子の次男でパリでラヴェルのボレロ初演を22歳で聴いた池内は、帰国後、フランス流の作曲理論で簡潔明解、洗練された書式を徹底して指導、その門下から多くの作曲家達を育てました。矢代秋雄、三善晃、一柳慧、石井眞木、池辺晋一郎、諸井誠、林光、三木稔、佐藤眞、広瀬量平、イサン・ユン、私も中学2年の時、池内先生の最後の門戸を叩きました。その後イサン・ユンの枝にも繋がり、ユン門下には細川俊夫がいます。林光からは萩京子、野田暉行から加古隆と、このフランスの幹からは、途絶える事なく枝から若葉が出ています。池内先生からは様々な作曲家が派閥なく育ち、師と同じくパリ音楽院に学んだ矢代、三善はもとより、一柳はニューヨークでジョン・ケージに出会い、石井はベルリンでユンと共にブラッハーに学ぶ、と言うように、多くの弟子がその個性を開花させたのは、フランスの名指導者、ナディア・ブーランジェを思わせます。ある日、私が池内先生のお宅にいた時、偶然、ある日、私が池内先生のお宅にいた時、偶然、門下でないある作曲家の音楽がテレビから流れました。池内先生は笑顔でほめられた後、その作曲の良い点を端的に説明して下さった思い出があります。本当に偉大な先生でした。

「この樹はこれからどうなって行くのか」

明治から生えてきた日本人作曲家の樹。戦争中は諸井三郎門下で浜松出身の尾崎宗吉が戦死したり、枝の折れる苦難の時期がありました。戦後の高度成長を経て、亡くなる前の武満徹が「作曲家はみんな頭でっかちになっちゃって、頭で計算して、誰よりも素晴らしい独自なものを書こうと競争し始めたわけだ。ルトスワフスキが一番大事なのは新しい歌を歌うという事だ、と言ったのが印象的」と言われた言葉を朗読して終わりました。

「社会の中での作曲家の存在」

最後に一柳慧理事長より、社会の中での作曲家の存在について話されました。
「今、科学技術の進歩は目覚ましいものがありますが、精神文化、文明の要めである作曲や芸術も、これに拮抗する存在として、社会との絆を強く意識する必要があるでしょう。ヨーロッパやアメリカ、カナダ、フィンランド、韓国、中国でも、作品の委嘱が数多く行われていますが、日本も次の時代の音楽の為に、そのような刺激のある文化的環境の形成への働きかけが不可欠だと思います。」と締めくくられ、今年の最後の訓示として、目が覚める思いが致しました。

参考文献
團伊玖磨 日本人と西洋音楽 NHK人間大学
皆川達雄/倉田喜弘監修 詳説総合音楽史年表 教育芸術社
梶田昭 医学の歴史 講談社学術文庫
武満眞樹編集 武満徹の世界 集英社
小林緑 女性作曲家列伝 平凡社選書


プロフィール
徳山美奈子
東京芸術大学、ベルリン芸術大学卒業。 作曲を池内友次郎、矢代秋雄、尹伊桑に師事。 1992年笙とハープの為の「ファンタジア」で、第5回福井ハープフェスティバルに於ける、福井ハープ音楽賞を受賞。 1995年同フェスティバル国際作曲コンクール審査員。同年、クラウディオ・アバド音楽監督による、1997年度ウィーン国際作曲コンクールにて第1位受賞。 受賞作のバレエ作品「メメント・モリ」が、1996年ウィーン・モデルン音楽祭でのオーケストラ初演を経て、1997年ウィーン国立歌劇場バレエ団により振付、舞台上演される。 2003年より日本音楽コンクール作曲部門審査員。2006年第6回浜松国際ピアノコンクール日本人作品委嘱作曲家。主要作品として、同コンクール課題曲「ムジカ・ナラ」、ハープの為の「オリエンタルガーデン」等。 2013年より厚生労働省社会保障審議会委員を務めている。
ウェブサイト:minakotokuyama.sakura.ne.jp

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