Sibelius祭りの意味
新田ユリ
●シベリウス生誕150年を掲げて
2015年12月8日、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスは150歳を迎えた。2007年の没後50年からわずか8年で生誕150年。いかに長命の作曲家であったかがわかる。
このアニヴァーサリーに、国内では日本シベリウス協会が、そして本国フィンランドでも3つのシベリウス協会と音楽機関が連携を持ち大きなプロジェクトが1年をとおして繰り広げられた。5年に一度開催される「シベリウス国際会議」も12月の初旬、生誕の地ハメーンリンナで開催された。日本からはヴァイオリニストの佐藤まどか女史が、オープニングコンサートに出演のため参加した。この会議の前には、やはり5年に一度のシベリウス国際ヴァイオリンコンクールも開催されファイナリスト6名には日本から参加の17歳の吉田南も残り、韓国系アメリカ人のリー・クリステルが第1位を受賞した。
さて日本国内においては、年間とおして多くのフィンランド人音楽家が来日した年でもあった。
生誕150年を詠ったコンサートを列挙してみる。
☆ハンヌ・リントゥ指揮 新日本交響楽団&フィンランド放送響 <すみだトリフォニーホール主催>
10月7日(水) 交響曲第3番・第4番・第2番 新日フィル
10月10日(土)大洋の女神・交響曲第6番・第1番 新日フィル
11月2日(月) 交響詩タピオラ・交響曲第7番・第5番 フィンランド放送響
☆ハンヌ・リントゥ指揮 フィンランド放送交響楽団 <ジャパンアーツ招聘>
11月3日(火)静岡、4日(水)東京サントリーホール、6日(金)徳山、8日(日)大阪
フィンランディア・ヴァイオリン協奏曲(諏訪内晶子)、交響曲第2番
☆オッコ・カム指揮 ラハティ交響楽団
11月23日(祝・月)札幌コンサートホールキタラ、11月25日(水)松本
フィンランディア、ヴァイオリン協奏曲(神尾真由子・ペッテリ・イーヴォネン)、交響曲第2番
<オペラシティコンサートホール主催 シベリウスチクルス>
11月26日(木)交響曲第1番、第2番
11月27日(金)交響曲第3番、ヴァイオリン協奏曲、第4番
11月29日(日)交響曲第5番、第6番、第7番
☆オスモ・ヴァンスカ指揮 読売日本交響楽団
11月20日(金) 東京芸術劇場 11月21日(土)ザ・シンフォニーホール(大阪)
シベリウス:交響詩「フィンランディア」
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番(リーズ・ドゥ・ラ・サール )シベリウス:交響曲 第2番
11月27日(金) サントリーホール、28日(土)東京藝術劇場
シベリウス:「カレリア」組曲、ヴァイオリン協奏曲(エリナ・ヴァハラ )交響曲 第1番
12月 4日(金)サントリーホール
シベリウス:交響曲 第5番、第6番、第7番
そしてもう一人日本フィルハーモニー交響楽団首席客演指揮者ピエタリ・インキネンも11月の定期演奏会において、マーラーの曲とカップリングでシベリウスの「歴史的情景第1番・第2番」「ベルシャザールの饗宴」を演奏している。インキネンは2013年にすでに日フィルと交響曲のチクルスを終えている。
上記のように10月から12月はじめにかけてフィンランド人指揮者によるシベリウス演奏が集中することになり、巷のシベリウス愛好家の声は「嬉し泣き」というところだった。「泣き」は主に懐具合とスケジュールの関係による。リントゥを指揮者として行ったチクルスは演奏会場のすみだトリフォニーホールが主催の公演。トリフォニーホールと言えば、その昔1999年にラハティ響を招聘し衝撃的な初来日の「シベリウスチクルス」を生み出したところ。その後2003年、2006年とラハティ響は来日、それはすべて当時の音楽監督オスモ・ヴァンスカの指揮によるものだった。その時の印象を強く記憶するシベリウスファンは多い。
この秋に集中したことで非常にデリケートな現象が見られた。ラハティ響の育ての親であるヴァンスカは、ラハティ響来日の時期とほぼ時期を同じくして読響へ客演。もちろんプログラムはシベリウス。ラハティ響はヴァンスカのあと、サラステを間に3年はさみ、現在のカムへとバトンが渡されている。そしてカムの任期も来年の夏まで。秋からは初めての外国人指揮者であるロシア人の若手が後を引き継ぐことが決まっている。いわばカムとの来日公演はラストチャンス。ヴァンスカが率いた初来日で日本の聴衆の心をしっかりつかんだオーケストラを率いて9年ぶりの来日公演となっていた今回、ラハティ響の楽員もマエストロも最終公演に向かって集中力が増し、素晴らしい内容になっていたと聞く。あいにく筆者は最終公演を拝聴できなかったが、来場の知人友人から山ほどの賞賛のコメントを後できいている。その最終公演の前日はヴァンスカ=読響の定期演奏会があった。そこにマエストロ・カムをはじめとしてラハティ響の楽員も複数来場していたと聞く。そして翌日のラハティ響公演にはヴァンスカが客席に。日本においてお互いの仕事を客席で聴くという出来事があった。かつての主兵ラハティ響の演奏を聴いたヴァンスカが漏らした言葉は、読響の皆さんはご存じだがある種の闘志が漲っていたとリハーサルに立ち会った人から聞いている。
●シベリウス演奏の多様性
筆者はこの晩秋の日本におけるシベリウス演奏の前に、本国フィンランドのラハティで毎年開催されているシベリウス音楽祭も拝聴した。2000年にはじまったこの音楽祭もすでに16回目を迎えている。皆勤賞で拝聴しているが、生誕150年という特別な年には、これまでになく特別な企画が1週間にわたり繰り広げられていた。レジデンスオーケストラのラハティ交響楽団が三日間、ほかに、ヘルシンキフィル、BBC響というゲストを迎えて、マエストロも歴代の音楽祭監督3名のマエストロのほかに、セーゲルスタム、オラモというフィンランドを代表する国際的指揮者が並んだ。つまり1週間で5名の指揮者と3つのオーケストラが集い、シベリウスの交響曲&交響詩&ヴァイオリン協奏曲を演奏という内容だった。その時間の中で得た感想と、この晩秋の東京での感想をまとめると、シベリウス演奏の多様性という話に行きつく。
「多様な解釈の可能性があるものは名曲と言える」と言われる。一様の表現や限定スタイルでのみ楽しまれる作品と比較して、指揮者やオーケストラが代わることで、あるいは時代を超える中で作品の解釈表現が変化してゆくものは次の時代に残っており、多くの聴衆を惹きつけている。文学における名作、演劇における時代を超えて演じられる戯曲も同様で、それらは作品の本質をたどる道筋が深く長い。シベリウスは生誕150年だが、まだ没後59年である。作品の真価についてまだまだ多くの言葉が並ぶ時間を必要とする世代の作曲家だと思う。
大きくわけて、シベリウスの演奏解釈には2つのスタイルがみられる。シベリウスの独自性をそのまま表現するもの、もう一つは独特な書法の中に「不完全さ」を見てほかの音楽書法の文法を持ち込むもの。やや抽象的な表現となったが、両者の結果は「透明感あふれ、北欧フィンランド独特の空気感が伝わってくる」「ドラマティックで後期ロマン派の延長のスタイル」表面的にはこの二つの印象に分かれていると思う。そしてフィンランド人指揮者もこの二つのタイプに分類できる。「お国のものはお国の指揮者、オーケストラで聴く」と一口に言っても、フィンランド人という同じ文化背景を持つ音楽家でもシベリウスに対して様々な意見を持っている。このメモリアルの1年は記者会見、インタビューなどを通してフィンランド人音楽家のシベリウス観を知ることができた年でもあった。それを通しても音楽家個人としてのパーソナリティの違いということを越えて、やはり上記二つの立場に分類をまとめることができると感じている。
その表現の根幹となる部分に「音質・音色」への意識がある。シベリウスのスコアから自分がもっとも学んだことは、音の存在空間の幅についてであった。シベリウスが記す強弱記号は通常の解釈では「これは訂正されるべき」「過ちであろう」と思われるものも多い。しかしシベリウスの耳が聞き取ったもの、あるいはデザインしたものは強弱の座標に音色も含めている。生活空間の中に計測不能なほど同時に存在している音をすべて書き取っているように感じられるほど、その筆はデリケートだ。そのデリケートな筆跡を大切にすると、音型というデッサンやテンポの設計もおのずと慎重になり、また表現が多様化する。シベリウスの独特な書法を大切にする演奏家たちは、このことが共通していると思う。一方、例えば異種楽器でも同じ音型で並ぶものは一様の音色と音量を作り、全体のデッサンを骨太にそしてタッチを明確に描く指揮者がいる。それは非常にドラマティックで主張のはっきりした演奏になる。シベリウス独特のpの数が多い部分も、「聞こえなくては話にならない」という考えのもと、強弱のレンジは狭くなり、どちらかというと強奏の表現の方に重心が傾く。またテンポ設定についても、演奏効果を重視した設計を執ることが多くなる。しかし、シベリウスが愛用した「meno」という言葉の使い方は独特で強弱においてもテンポ指定においてもデリケートな変化を求めるところに置く傾向がある。そこにはあまりに細微な変化や緊張感を伴う移行がありいわゆる演奏効果としては「もどかしい」「停滞感がある」という評価をされがちだ。そのことを嫌う指揮者もいる。
そしてもう一つのポイントは、シベリウスがいつの時代の人であるかという理解の違いにある。長命の作曲家は19世紀半ばに生まれ、20世紀半ばまで生きた。音楽文化の大きな変化を体験している。世界の政治的な大きな事件にも出会っている。人類がかつてなく変化を強いられた19世紀から20世紀という時代をちょうど半分ずつ生きている作曲家シベリウス。シベリウス自身は後輩の作曲家へのエールは忘れなかった。音楽の文法が大きく変化する流れをきちんと把握していた。その中で自分の道を模索し咀嚼し遺された作品を現在我々が演奏することができる。調性音楽を書き続けたシベリウスが選択した歩みというのは、いわゆる19世紀までを踏襲しているということなのだろうか・・・18世紀19世紀を捨てられずにいた結果なのだろうか・・・自分は否と思う。もっと以前の時代。音楽の原点、音楽文化の発祥までさかのぼっている視線を作品には感じる。いわゆる元素を自分の手で今一度組織しなおし20世紀を越えて生き延びる音楽作品の新たな物体=スタイルを探し出した作曲家、そのようにとらえても許されるのではないだろうか。
フィンランド人指揮者たちは、一様にシベリウスの「モダンさ」を語る。演奏スタイルを越えて、その未来への視線を同じように作品に感じているフィンランドの音楽家たち。激動の時代の中で自分のスタイルを維持し、世紀を越えて人を惹きつける作品を遺したシベリウスへの敬愛の気持ちとある種の畏れをもって対峙するフィンランドのマエストロたち。その彼らから2015年はまた新たにシベリウスの多様性を学んだように思う。
巷の演奏への感想や評価も多岐にわたっている。その言葉の中に、シベリウスを愛する聴衆がシベリウスを「どのように聴いているか」の視点も見ることができた。考えさせられることが多い1年だった。
2015年12月8日にようやく150歳をむかえたシベリウス。ここからが本当の生誕150年とも言われている。まだまだ演奏頻度の少ない作品が眠り並んでいる。21世紀がシベリウスに向ける視線は探求心に満ちたものになるだろう。シベリウス祭りの意味はここからの日々で明らかになる。
プロフィール
新田ユリ
’90年ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト、’91年東京国際音楽コンクール第2位受賞。’91年4月東京交響楽団を指揮してデビュー、その後国内主要オーケストラ、オペラ団体、吹奏楽団へ客演。文化庁芸術家在外研修生として’00年より1年、フィンランドで研修。以後日本とフィンランドを拠点として活動を続ける。クオピオ交響楽団、ミッケリ市管弦楽団、ヨエンスー市交響楽団、フィンランド国防軍吹奏楽団、トゥルク海軍吹奏楽団等へ客演、’05~’07オウルンサロ音楽祭客演、’06年、’13年にはリエクサブラスウィークに招聘。’05年フィンランド・ラムステッド奨学金を授与される。’15年より愛知室内オーケストラ常任指揮者に就任。’14年10月に日本シベリウス協会第3代会長に就任。国立音大、桐朋学園、相愛大学、同志社女子大などで後進の指導にもあたる。