今、可能な音楽とは何か

川島素晴

私見では、フィンランドの音楽教育の水準は高く、とりわけ、ソルフェージュ等の基礎教育のレベルが欧米諸国の中でも群を抜いている。高度なソルフェージュ教育が浸透している環境下では、演奏家に、自ずと現代音楽への接近を促し、今日に生きる演奏家として至極当然のこととして、現代作品への取り組みを日常化する。今を生きる作曲家とのコラボレーションが頻繁に行われる環境は、楽譜を介在する作曲者との対話の習慣をもたらし、ひいては、過去の作品への理解(=過去の作曲家との対話)をも促す。現在を誠実に生きることが、過去の理解につながり、そしてそれが未来を拓く。このような真の知性を備えた国民性は、当然ながら、国家のあり方と通底する。それを反映する事例として、フィンランドでは、高レベル放射性廃棄物処分場の建設が進んでいる。その建設を巡るドキュメンタリー映画「100,000年後の安全(原題:INTO ETERNITY)」を観ると、これは決して「解決」などではなく、猛烈な負の遺産を10万年先の未来に遺す、現世の人類による究極の悪業なのだということを思い知らされる。しかしながら、日本を含め、世界のどこも解決していない処分場問題に、いち早く目処を立てた国家として、そして、それを赤裸々にドキュメントすることを許諾した国家として、フィンランドには尊敬の念を抱く。
2011年3月11日という日を境に、日本は、そして日本と世界の関係は、一変してしまった。世界は当初、震災被害に同情した。しかし原発問題については、当初から冷淡だった。まず外国人が日本から多数避難し、来るはずだった外国人は、次々と来日をキャンセルした。倒産する音楽マネージメント業者も出たし、倒れないまでも、補償の対象にならない多額の被害を抱えての悪戦苦闘が強いられている。このようにして、前代未聞の事態となって長期化する原発問題は、日増しに、世界の眼差しを「同情」から「忌避」へと変化させている。国内でも原発問題は復興の足枷となり、音楽業界のみならず様々な業種で連鎖的に業績悪化が進行している。経済被害という名の新たな津波は、東西を問わず日本全体に徐々に押し寄せるはずだ。そうなれば、芸術家の活動は著しく制限される。それでもなお、「現代音楽の作曲家」などというものを、続けていけるのだろうか。3.11(東日本大震災)以前と以後の時間的連続を、何事も無かったかのように、安穏と受け入れることはできない。復興に向かう前段階で立往生している世の中で、以前と変わらぬ活動を、とはいかない。「音楽とは何か」、「音楽活動とは何か」といった、根源的な問題に解を見出さなければ、前に進めない。できることなら、今回の震災は、第二次世界大戦に照らせば「終戦」の日と思いたかった。原爆他の大規模な被害もあったが、終戦以後は目覚ましい復興の希望があった。しかしどうやらこれは、自爆した原発に端を発する「戦中」の始まりのようだ。向こう10年は続く、凶悪なゴミとの戦争。日本に居続ける以上、このゴミとの共存(もちろん廃絶を目指すべきものとして)を覚悟しなければならない。今回福島で生じた放射性物質のみならず、核のゴミの廃絶は半永久的に不可能である。だが少なくとも、これ以上増やさない努力は可能なのだ。敗戦のダメージが平和主義を導いたように、これから続く地獄を味わってこそ、新しいエネルギーを求める声が強くなるだろう。そのような中、我々芸術家が何かを発言することは、これまで何十年と戦い続けてきた専門家の言葉の上書きでしかあり得ない。結局のところ芸術家は、ただひたすら、これまで以上に真摯に芸術の未来を拓くことでしか生きられない。この状況を打開するために具体的に貢献する、何らの術をも持たない。だから「創る」しかない。現在の戦争状態を正しく認識しつつ、しかし、歩みを止めてはいけない。以前との相違点は、強いて言えば「真摯さ」や「切実さ」だろうか。言葉では簡単だが、根源的な何かが変化するはずである。その「何か」が何なのかを、今は言明できないでいる。ここで想起するのは、昭和一桁世代の創作の充実ぶりである。とりわけ作曲界では、このことはしばしば指摘されてきた。戦後を体験したその世代と、私(1972年生)より下の世代は、そのような意味で相似する、と後世に評価されるだろうか・・・否、されねばならない。我々には今、芸術家として生きるための本質を見据えることが迫られている。ちょうど戦中の芸術家が、自らのスタンスを明確にしなければ活動できなかったように。その上でなお、私は創り続ける。殊更に何かを変えることなく。これまでの延長でいることが、最も強い、主張だろうと思うから。戦後の高度経済成長は、バブル崩壊を導き、そして経済復興の僅かな兆しが見えつつあるさなかに、原発事故という悪夢をもたらした。だからもう、経済大国を目指すという、同じ轍は踏むべきではない。今度こそは、再生可能エネルギーを中心に据え、過度の利便性と虚飾に満ちた生活を放棄すべきだろう。これから数年、外国人が日本の地を敬遠するというならば、むしろそれは絶好のチャンスと、ポジティヴ・シンキングをするべきだ。今こそ、自国の人材による文化的自給自足を目指せばよいのである。強い意志力と高いモチベーションに裏付けられた豊かな人材を輩出し、借り物でもない、欧米コンプレックスでもない、真の意味での成熟した文化振興を目指すべきなのではないか。例えばフィンランドは、原発事故を経るまでもなく、既に、そのような立ち位置を獲得している。豊かな自然と高度な文化を共存させてきた、このような国と国民に、見習うべき点は多い。
21世紀の日本が生き残り得るとすれば、経済大国のレッテルとプライドを棄て、文化立国としての存在感を高めていくことが、復興のビジョンとして許される唯一のシナリオだと、確信している。


川島素晴 (作曲家)
1972年東京生まれ。東京芸術大学、及び同大学院修了。秋吉台国際作曲賞(1992)、ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞(1996)、第7回芥川作曲賞(1997)、中島健蔵音楽賞(2009)等を受賞。「演じる音楽」を掲げて創作活動を展開している。現在、「いずみシンフォニエッタ大阪」プログラムアドバイザー、シリーズ「eX.(エクスドット)」主宰。国立音楽大学専任講師
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